◆別府温泉

1 歴史について

そもそも別府という地名は、もとは「別符」もしくは「弁分」と書かれていたという。

この地名が出来たのは平安末期である。

宇佐八幡宮はもともと速見郡石垣村に荘園を持っていたのであるが、その東側の海の近くに新規に土地を開墾し、荘園となした。

ただ、荘園は各領主が勝手に所有することは許されず、必ず中央の朝廷による許可証、すなわち免符を必要としたのであるが、新規に開拓した地域には、それまでの荘園とは別の免符を必要としたのである。

そして、この地域は別な免符によって許可を受けた荘園ということで、「石垣別符」と呼ばれるようになり、いつしか単に「別府」と呼ばれるに至ったのである。

さて、鎌倉時代になり、源頼朝の命を受けた大友能直が豊後守護に任じられ、豊後は大友の支配下となった。

能直自身は鎌倉と京都の間を往復し、豊後には下向しなかったようだが、浜脇の地に大友の居館を置き、代官に支配された模様である。

やがて、大陸では蒙古が支那大陸を席捲し、その大部分を支配化に置くに及んで風雲急を告げる事態となり、大友3代・頼泰は知行国に下向する。

この頼泰の時期に、温泉の出る別府の地に、元寇の合戦で傷ついた兵士たちが保養に訪れたという。

今はなくなった楠温泉がそれである。

なお、この地は浜脇と並んで大友氏の直轄領でもあったことから歴代の大友氏当主らはここに温泉奉行を置き管理させたという。

そして、こうした状況は文禄2(1593)年の大友氏の除国まで続くのである。

江戸時代に入ると、別府は天領となり、湯治場として栄えた。



別府のランドマーク・竹瓦温泉
明治になると、温泉街の近くに楠港が開港したことで、関西・四国方面からの湯治客が大勢訪れるようになった


さらに「上総掘り」と呼ばれる源泉掘削技術が伝わって温泉の源泉数が飛躍的に増えたことで驚異的な大発展を遂げた。


また近代の別府の発展を語る上で忘れてはならないのが、油屋熊八翁の存在である。




別府を舞台に活躍した彼は、

「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」


とのキャッチフレーズにあるように、常に別府を日本各地に宣伝することを忘れなかった。

献身的な別府への宣伝により、戦後の高度経済成長の波に乗って別府は、温泉街としてゆるぎない地位を築くに至ったのである。


だが、バブルの崩壊による経済の低迷、そして価値観や余暇の過ごし方の多様化に伴い、その発展にもかげりが見えてきた。

老舗と云われた旅館の中にも経営が立ち行かず閉館を余儀なくされるところも出てくるようになり、苦戦を強いられているのが現状である。

そうした中、この地域は古い町並みが残っているところからこれらを観光資源化し、町の活性化を模索している。




2 泉質

この地域の泉質はおおかた、ナトリウム=炭酸水素塩泉(重曹泉)が多く肌がつるつるになる温泉が多い。

その他、単純泉、硫黄泉、塩化物泉とバラエティに富んでいる。


3 入湯した温泉の紹介

(執筆中)