そしていよいよ当日。
朝食としては多すぎる程の食事を平らげ(御立ち飯<※>か?!)、宿を後にする。
<※>御立ち飯:
上杉軍に於いて合戦の前に充分な働きが出来るようにと兵達に腹一杯食べさせるご馳走。
現在も新潟県上越市の名物として「御立ち飯」は残っており、JR直江津驛には「謙信公御立ち飯」なる驛弁(1050円)がある。それがしはまだ食したことはないのだが、興味のある御仁は食べてみると宜敷い。
武田方の宮下隊は宿の隣の海津城(石和北小)へ、そして我ら上杉隊は妻女山(石和南小)へ車或いは徒歩で向かう。
陣屋(体育館)ではもう既に武装している兵たちでひしめいていた。
それがし共も甲冑の着付けを始める。
今回はそれがし自らが大将をさせて頂くこととなり、副将は前日じゃんけんで勝ち残った碓氷六三郎殿が勤めることとなった。
さて、昨年大将役を務めた碧雲斎殿はといえば…
今回は第一線での戦いを経験して頂きたいということで足軽となった。
許して呉れい、大吾朗…(爆)
というのは冗談として、実はじゃんけんで勝ち残れなかっただけの話である。
あとの面々は飯綱武蔵守法達殿、相模守太郎殿は立派な自前鎧であり、とりわけ飯綱武蔵守法達殿の鎧は大将をも凌ぐばかりの脇立てでまるで「ウルトラの父」のようである(驚嘆)。
左近殿は自前鎧が赤備えということで持参せず、足軽鎧にて参加。
村上伊賀守義晴殿は甲冑は持っていないので足軽鎧である。
さて、それがしの役柄はといえば…
「宇佐美駿河守定勝」!!
定勝とは?
宇佐美定満(?~永禄7・1564)ならば御存知の如く、謙信公の軍師として名高い将であるが…
上田長尾氏の長尾政景を野尻池にて舟遊びに誘い、酔って舟より転落し、2人とも溺死し、これを以って上田長尾氏と宇佐美氏は取り潰されたとされているが、異説もあり、永禄11(1568)年の文書に「宇佐美弥八郎」なる名前が見えることから考えると定満の後も宇佐美家は存続していたようである。
ただし、それがしは弥八郎と定勝との繋がりについては存知あげていない。
今回の鎧は大袖の胴丸なので、一人で着ることは出来ず、高津装飾殿に手伝って頂いた。
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今回自前鎧での参加は群馬県甘楽町に続いて二度目となる相模守太郎殿。
まだまだ甲冑の着付けはぎこちないと見える。 |
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今回はるばる伊賀上野から参陣頂いた村上伊賀守義晴殿。
滅多にないシチュエーションということで、旗をお借りし、記念撮影をする。
この「村上義清」(文亀3・1503~天正元・1573)という人物は北信濃を本拠に南の小笠原氏と信濃を二分する勢力を誇っていた武将であり、信玄を二度も打ち負かしたほどの剛の者でもあった。
しかし武運つたなくその領地を追われ、越後の謙信公を頼って落ち延び、北信濃の諸領主の本領奪還のために出陣を要請したのである。
いわば彼は川中島の合戦の発端となった人物である。
以後彼は上杉軍の配下として数ある戦いに従軍するが、本領への復帰は叶わず、越後根地城にて客死する。
尚、信濃の本領への復帰は彼の息子・国清の代になって実現した。 |
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ついでにそれがしも旗をお借りし、記念撮影をする。
旗に書いてある名前は「長尾藤景」という人物である。
この人物は公文書では「遠江守」の名でたびたび登場するもののそれがしはその詳細を知らない。 |
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右から大将それがし、副将碓氷六三郎殿、飯綱武蔵守法達殿 |
(提供:こたつ城主殿) |
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さて、着付けが終わった隊から順次記念撮影をする。
それがしの隊はわりと早く完了したのですぐに記念撮影が出来た。
以後次から次へ記念撮影をする隊が陣幕の前に並ぶが、中でも目を惹いたのが、以下の部隊であった。
中條藤資隊なのだが、殆どが外人なのである。
その一人がトム・クルーズに酷似していたのには笑ってしまった。
その彼が鎧を着ているだけに、まさしく「ラスト・サムライ」だと皆で言い合った。
さて、記念撮影が終わったところで、しばしチャンバラなどをして遊ぶが、程なく戦奉行により召集がかかる。
まず恒例の如く、この戦は武田の故地で行われるので戦いの如何に関わらず武田軍の勝ち、上杉は負けなければならない、とのお達しが。
そして、殺陣は槍を上方で合わせるにとどめ、決して槍や刀を人体に向けてはいけない、等の注意事項を申し渡された。
そのあと、一般の隊士は解散しすぐに昼食になる。
我々大将役は武締式での段取り(とはいっても至極簡単なものではあるが)の説明があったあと、食事となった。
昼食は簡単なもので、おにぎり3個とから揚げ一個であった。
最も、それがし共は旅館で「御立ち飯」を食して来たのだからそれでも充分ではあったが。
昼食後は昼寝をする御仁、殺陣の稽古に余念がない御仁など、めいめいに過ごす。
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さて、12時50分、戦奉行により、再び召集がかかる。
なにやら謙信公が海津城内のただならぬ雰囲気を察知したようである。
「さては我が陣地への攻撃を目論んでおるのか…
我が軍は隠密裏にこの妻女山を出立し、八幡原を目指す!!」 |
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そして13時に妻女山(石和南小)出立。
「鞭聲粛粛夜河を渡る…」
敵方に感づかれること無く公園の前で途中停止し、武田軍が通過するのを待つ。
再び粛粛と…
否、粛粛どころか、意気高らかに勝ち鬨を連発し、実に賑々しい、史実とは凡そ異なった進軍となったのである(今年もかい?! 爆)
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進軍を続け、会場が見えてくると士気も一段と高くなり、興奮もいや増してくる。
勝ち鬨を連発する。
ここで鵜飼橋を渡るかと思いきや、観客席の間の道を歩き、演出用の仮設橋を渡って戦場に入場する。
(提供:左近殿)
仮設橋を渡る途中それがしはテレビカメラにおもむろに写された。
こういうことは今までなかったので、緊張した。
出来る限り威風堂々と構えたが実際にはどのように写ったのであろうか。
橋を渡ったところで、大将役の面々は隊士たちと別れ、武締式の会場に行き、それぞれの席に座る。
(提供:太郎丸殿)
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ここで待つこと数十分、彼方では町のお偉いさんが話をしているようである。
その後武田陣営では三献の儀式をやる。
が、それがしの場所からは見えない。
また大将という役柄は目立つため、あからさまに写真機を出すことも憚られる(今回写真が少ないのはそのためである)。
三献の儀式がおわり、いよいよ武締式である。
毘沙門天を祭り、その神前に供えた水を頂く。
(2002年石和合戦より)
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その後武田・上杉両軍は鉄砲により威嚇射撃をする。
そして、車懸かりの陣。
全速力で武田陣地を突破し、陣形を突き崩す。
一方水際では演出部隊による死闘が繰り広げられていた。
そして、さらに2回車懸かりの陣で攻撃を加える。
だが…
はかばかしくない戦況に業を煮やした謙信公は自ら出陣、ただ一騎で信玄のいる陣地へ突っ込む。
三太刀七太刀の再現だ!!
(2003石和合戦より)
そしていよいよ…
全軍総懸かりである。
硝煙たなびき、巻き上がる土煙、阿鼻叫喚…
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2002石和合戦より |
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2002石和合戦より |
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そして戦いは終わった…
両軍夥しい犠牲を残して…
鎮魂の言葉のあと、やはりというべきか、武田方の勝利が高らかに宣言された。
今回我が隊には戦死者は居なかったようだ。
全員が死力を尽くして戦った結果であろう。
「死なんと思いて戦えば生き、生きんと戦えば死するものなり」
の通りであろう。
その表情には満足感が満ち満ちていた。
戦いの興奮冷めやらぬ戦場にてこたつ隊の面々と記念撮影をする。
上の写真はこたつ亭主殿に撮って頂いたものである。
この場をお借りし、篤く御礼申し上げまする。
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さて、戦場を離脱せんとするもそこに立ちはだかり、落ち武者狩りをする者が出現(爆)。
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哀れなるかな、落ち武者狩りの武士たちによって捕らえられてしまった碧雲斎殿。
あわや拉致と思われたが、この後辛くも解放され、無事に帰還することが出来た。 |
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何とか碧雲斎殿を返してもらい、帰路につこうかと思ったが、今度は飯綱武蔵守法達殿と相模守太郎殿がいない。
しばし探すも見つからないので我々は妻女山をめざして帰還する。
帰りに猛烈に喉が渇く。
「水、水を呉れ…」(何か「北斗の拳」の冒頭の場面のような…爆)
しかし自動販売機はどこも売り切れであり、我々が水にありついたのは妻女山の近くの自動販売機に至ってからであった。
水を飲みながらふと前方を見ると紋次郎隊の面々が皆で集まって休んでいた。
この時他の隊の面々は武装解除しているのであるが、甲冑姿が名残惜しいらしい。
陣屋(体育館)に入ると飯綱武蔵守法達殿と相模守太郎殿はいた。
ここで武装解除し、身軽になる。
ここでそれがしと碓氷六三郎殿は宿を目指す。
道すがら大きな荷物を引いている見たことのある御仁に会った。
山内兵馬殿と真下昌景殿である。
今回武田方の弾正隊で参加され、しかも当日参加されたので、今回お会いすることはなかろうと思っていたのだが、偶然にもお会いし、しばし談話する。
そして彼らと別れると今度はこたつ隊の方々とお会いし、途中まで話しながら歩いた。
宿に着き、早速露天風呂に入る。
隊の面々も一緒である。
風呂に浸かりながら、来年の戦略など色々話し合う。
そして風呂から上がり、しばし酒を飲みながら雑談をする。
夕涼みに酒を飲みながらというのは実に風流である。
途中、飯綱武蔵守法達殿と左近殿が退出する。
残った上杉隊の面々と宮下隊の面々はまずお土産を買いに石和温泉驛前の売店まで行く。
ここでまたもやこたつ殿と遭遇。
今回はこたつ隊の方々とご縁があるようだ。
駐車場でしばしお話し、買い物をする。
そして、近くのレストランで食事しながら雑談をする。
そうこうするうちに20時近くになり解散することに。
車の面々と汽車の面々とに別れ、最後に勝ち鬨をあげ、解散した。
そしてそれがし、三浦介星友殿、碓氷六三郎殿は20:08石和温泉発「かいじ122号」に乗る。
列車の中でもしばし雑談し、八王子驛で三浦介星友殿と碓氷六三郎殿は降りる。
そしてそれがしはそのまま立川まで行き、立川から快速で国立まで、屋敷に着いたのは22時を廻る頃であり、これを以って今年の石和合戦は無事終了したのであった。
(完)
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