天室光育(?~永禄6・1563年)

長尾家の菩提寺・春日山林泉寺の6世住職。

林泉寺は謙信の祖父・能景がその父・重景の菩提を弔うために曇英恵応を開基に建立した曹洞宗永平寺派の寺院である。

謙信は7歳の時から14歳の元服の時まで林泉寺にて小僧として修行していたが、光育は幼少の謙信に対し、厳しく修行を仕込んだ。

光育は謙信に対し、仏道修行はもとより、四書五経・漢詩・和歌などの伝授をしたが、謙信の信仰の篤さや様々な分野での教養の深さは光育によるものと言っても過言ではないであろう。

天文20(1551)年3月、林泉寺住職の座を弟子の益翁宗謙に譲って退隠するが、謙信が27歳の時に旧師の光育にあてて国主引退の意を長文にしたためたことでも知られているように、謙信にとって心の師匠でありつづけた。

その後、上杉家家臣・柿崎景家の招きで柿崎氏領内に楞厳寺(りょうごんじ)を建立、その住職となる。


永禄6(1563)年6月没。

墓所は楞厳寺内に柿崎景家の墓所の隣にある。




益翁宗謙(?~永禄13・1570年)

越後に生まれ、天室光育の弟子となる。

天文20(1551)年3月、光育より林泉寺住職の座を譲られ、7世住職となる。

非常に聡明で、謙信と陣中にて禅問答をしたことは有名であり、謙信は光育と同様、師匠と仰いだ。

「謙信」という法名は彼の名「宗謙」の一字を貰って付けたものである。

永禄10(1567)年、謙信が妙照寺を創建した際、開山として招かれて初代住職となる。

永禄13(1570)年3月10日没。




徹岫宗九(文明12・1480~弘治2・1556)

臨済宗大応派の僧。


近江に生まれ、天文5(1536)年に師の小渓紹怤の後を継いで大徳寺住職となる。

後奈良天皇の帰依も篤く、天文20(1551)年8月には「仏徳大用禅師」を、同22(1553)年には「普応大満国師」の号を授かる。

また地方の諸大名からの帰依も受け、キリシタン大名で知られる豊後の大友宗麟(義鎮)も若年の頃は禅宗に帰依していたので、宗九の為に大徳寺内に瑞峰院を建立した。

謙信も上洛の際に大徳寺に宗九を訪ね、禅の奥義と法名「宗心」を授かる。

弘治2(1556)年4月13日瑞峰院にて没。




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