上杉顕定(享徳3・1454~永正7・1510年)

通称:四郎・民部大輔・右馬頭

越後守護・上杉房定の次男で、越後守護・上杉房能の実兄。

上杉房顕の養子となり、養父の没後の文正元(1466)年に13歳で関東管領となる。

文明8(1476)年、家臣である長尾景春が古河公方・足利成氏と組んで反乱を起こしたが同10(1478)年に和睦する。

長享2(1488)年から永正元(1504)年頃までは同族の扇谷上杉氏の定正や朝良らと対立するも、一進一退を繰り返す。

永正4(1507)年、実弟の房能が守護代の長尾為景に攻め滅ぼされると、弟の仇を討つべく越後に出兵し、一旦は為景を越中に追うが、再び勢いを盛り返し、反撃してきた為景の軍に追い詰められ、同7(1510)年6月20日、長森原(六日町)にて討死した。




上杉顕実( ?~永正12・1515年)

通称:四郎

山内上杉氏の当主で古河公方足利成氏の男。顕定の養子。

同じ顕定の養子である憲房と対立し憲房の家老・長尾景長に居城の武蔵国鉢形城を攻められて下総国古河城に逃れた。
のちハンセン氏病を患い、その療養先の信濃国諏訪の温泉で没したとされる。





上杉氏憲(?~寛永14・1637年)

通称:三郎

武蔵深谷城主・深谷上杉氏の当主で憲盛の嫡男。

小田原北条氏に属し、天正18(1590)年の小田原攻めの時には小田原城に籠城。

主が不在の深谷城は重臣の秋元長朝が城代を勤めていたが、包囲され落城寸前のところで開城した。




上杉定実(?~天文19・1550年)

通称:兵庫頭

上条上杉家の出身で房実の一子。

越後守護・上杉房能の養子となり、養父が守護代・長尾為景と戦い、敗死後に越後守護となる。

永正10(1513)年、宇佐美房忠と通じて為景を除こうと、戦いを挑むが敗れる。

以後、為景に対しては従順となり、終生にわたって守護代の傀儡であり続ける。

為景の没後の晴景の代に、守護代・晴景とその弟・景虎が対立し、一触即発という事態になった際には仲介役を買って出て両者を和解させ、景虎への代替わりを促したこともあった。

しかし、定実には男子は居らず、女子が居るだけだったので、その嫁ぎ先に連なる伊達時宗丸(実元・定実の曾孫)を自らの養子とすべく上杉・伊達家の家中に運動をする。

この縁談は半ばまでうまくいきかけたが、両家の思惑や勢力関係が崩れることを危惧した反対派により立ち消えになってしまった。

そして定実は後継者の居ないままに病没し、越後上杉家は断絶してしまったのであった。




上杉定正(嘉吉3・1443~明応3・1494年)

通称:修理大夫

扇谷上杉持朝の三男。

文明5(1473)年、上杉政真の遺臣に擁される。

以後、重臣の太田道灌の補佐により扇谷上杉氏の威勢回復に努める。

しかし、道灌の主家への忠節を疑い、謀反の意があるとして、文明18(1486)年7月26日に相模国糟屋にて道灌を暗殺した。

長享2(1488)年以降、山内顕定とたびたび戦うが、明応3(1494)年10月5日、荒川を渡ろうとして落馬し、それが元で没した。




上杉朝興(長享2・1488~天文6・1537年)

通称:五郎・修理大夫

扇谷上杉氏の一族で朝寧の一子。

永正13(1516)年、北条早雲の攻撃を受けた三浦義同を救援すべく北条軍と戦うが敗れる。

同15(1518)年、扇谷上杉朝良が没し、その嫡男・藤王丸が幼少のため、朝興が名代となる。

大永4(1524)年、北条氏綱軍に江戸城を奪われ、居城・河越城に逃れる。

享禄3(1530)年、武蔵府中に兵を進めたが北条氏康の軍に敗れる。

やがて、天文元(1532)年、藤王丸を殺害し、自ら城主となる。

その後も相模方面に兵を進めるも勢力を挽回すること叶わず、同6(1537)年4月27日、河越城にて没した。




上杉朝定(大永5・1525~天文15・1546年)

通称:五郎・修理大夫

扇谷上杉朝興の嫡男。

天文6(1537)年父の死により家督を継ぐ。

武蔵深大寺城を築城し北条氏の守りに備えたが北条氏綱の軍によって居城・河越城を奪われ、難波田憲重のいる松山城に逃れた。

同10(1541)年朝定は長らく対立していた同族の山内上杉憲政と結び、同14(1545)年には河越城の奪還を目指し、古河公方・足利晴氏も味方に引き入れて、総勢8万余騎で北条方の福島綱成以下3千騎の守る河越城を攻めた。

翌年の春には城中の兵糧も尽き、落城は時間の問題と思われたが、同年4月20日、夜陰に乗じた北条氏康率いる8千騎の奇襲により攻城方は大混乱に陥った。

朝定は乱戦の中、敗死し、ここに扇谷上杉氏は滅亡したのであった。




上杉朝良(?~永正15・1518年)

通称:五郎・治部少輔

扇谷上杉朝昌の一子で扇谷上杉定正の養子となる。

明応3(1494)年、養父の死により家督を相続する。

北条早雲・今川氏親と組んで山内顕定と戦う。

永正元(1504)年、顕定と武蔵立河原で戦うも敗れ、翌年河越城を包囲され降伏し、江戸城に隠居した。




上杉憲賢(?~永禄3・1560年)

通称:次郎・義竹軒・雲岑・静賢

武蔵深谷城主で憲清の一子。




上杉憲勝(?~?)

通称:新蔵人・七沢七郎

武蔵松山城主。扇谷上杉定正の一子。

初め奥州に居たが、天文13(1544)年、太田資正に招かれて松山城に入り、その後謙信が関東に進出するに及んで、その傘下となる。

永禄5(1562)年3月、北条・武田連合軍に城を攻められて降伏・開城し、以後は北条氏に属した。




上杉憲寛(?~天文21・1551年)

通称:賢寿王丸・知ろう・晴直

古河公方・足利高基の一子で山内上杉憲房の養子となる。

大永5(1525)年、養父が没すると、その実子の憲政が幼少のため、彼が関東管領を継ぐ。

だが、享禄4年(1531)年、家臣らに擁立された憲政の軍に攻められて関東管領職を譲り、自らは上総国宮原に移り住んだ。




上杉憲房(応仁元・1467~大永5・1525年)

通称:五郎・兵庫頭

山内上杉氏の一族で周晟の一子。

上杉顕定の養子となる。

養父の没後、上野国平井城を居城として関東管領・上杉顕実と戦い、永正9(1512)年、顕実を討ち、管領職を継いだ。

しかし、家臣の長尾景春に背かれ、北条氏とも争うという状況の中で、大永5(1525)年3月25日没した。


(謙信公:只今館主に命じて編纂させておる、今しばらく待たれい!)



上杉憲政(大永3・1523?~天正6・1579年)


憲房の嫡男。山内上杉家最後の関東管領。

家臣らに擁されて足利家から養子に入っていた憲寛を追い出し、享禄4(1531)年関東管領職に就く。

この時点では幼かったので家臣がかなりの部分を補佐したのであろう。

長じてからはたびたび小田原から北上してきた北条氏と干戈を交えるも芳しい戦果は得られなかった。

次第に凋落していく関東管領の威光を挽回すべく、以前から対立してきた扇谷上杉氏と同盟を成立させたり、北条氏康と縁戚の古河公方・足利晴氏を味方に引き入れたり、駿河の今川義元と同盟を結ぶなどの政治的な工作をするもその勢力の衰えを止めることは出来なかった。

それでも、北条氏によって天文6(1537)年に奪われた扇谷上杉朝定の河越城を奪還すべく、天文14(1545)年10月、関東の諸将に呼びかけた際には総勢8万を越える軍勢が関東中から集まってきたのである。

少なくともこの時までは関東管領の権威はまだ生きていたのである。


この時、河越城を守っていたのは北条方の福島綱成を城将とした3000余騎で、城の周りは蟻の這い出る隙間もないほど厳重に固められてしまっていた。

翌天文15(1546)年の春には城側は兵糧も尽き、大変な苦境に陥っていて、落城も時間の問題かと思われていたのである。

だが、籠城している友軍の救済のために北条氏康が8千騎を率いて夜陰に乗じて関東管領軍に対し、猛攻撃を仕掛け城側も城門を開いて打って出てきたので、関東管領軍は大混乱に陥り、扇谷上杉朝定は戦死し、大惨敗を喫してしまったのである。

時に天文15(1546)年4月20日、これが歴史上名高い「河越夜戦」であった。


この合戦で、関東管領の威光は地に墜ち、憲政は居城の上野平井城に籠ることの方が多くなったという。

だが、北条氏は北上を続け、天文20(1551)年春には北条氏康が2万の兵を率いて武蔵と上野の国境にまで迫ってきたのである。

上杉方は太田資正や長野業政らが迎え撃ったが敗れ、7月に平井城も危うくなるに及び、一子・龍若丸に兵を付けて城を守らせ(体よく置き去りにしたともいう)自身は数名の側近らとともに城を落ちて越後に向かったのである。

(もっとも越後入りしたのはそれより数年の後で、実際は上越国境付近で北条氏に抵抗し戦っていたとも言われているが)


主の居なくなった平井城は程なく落城し、龍若丸は家臣らに北条方に引き渡され、家臣とともに小田原に送られたが、氏康は助命を認めず小田原城外の浜で斬殺された。

そして、主君の子を敵に売った家臣らも不忠者としてともに処刑された。

処刑が行なわれた場所には、現在「上杉神社」が建っており、龍若丸の霊が祭られている。


越後にやってきた憲政は謙信により暖かく迎えられ、国府に御館(おたて)と呼ばれる城館を建ててもらってそこに住み、隠居生活をする。

ここで再婚し、一子・憲藤は越後でもうけたといわれている。

だが、関東に返り咲くという望みを捨てたわけではなく、謙信の関東遠征にも度々従軍している。

永禄4年閏3月、憲政は謙信に上杉の名跡と伝来の宝物、関東管領職を譲った。


そして、そのまま越後で天寿を全うするかと思われたが、謙信没後の御館の乱で謙信の養子・景虎が憲政の元に転がり込んで来たことで暗転する。

景虎方の戦況が悪化するに及んで景虎夫妻は御館を後にして小田原を目指して敗走するが、鮫ヶ尾城で堀江宗親の裏切りにより自害、残された憲政は景虎の一子・道満丸を伴い、景勝の陣に和議仲裁をしにいく途中で景勝方の兵に斬殺されてしまったのであった。

時に57歳(一説に73歳とも)であったという。

尚、一子・憲藤も憲政と前後して討たれ、ここに関東管領家の正統はまったく断絶したのであった。


墓所は米澤市内の照陽寺境内にあり、同市内にある宮坂考古館には憲政のものと伝えられている甲冑も展示されている。



上杉憲盛(?~?)

通称:三郎・左兵衛尉

武蔵深谷城主。

上杉憲賢の一子。

上杉憲政に属し、天文20(1551)年、武田信玄と笛吹峠にて戦うも敗れる。

永禄12(1569)年、謙信に属して北条氏と戦ったが、天正元(1573)年には北条氏政に降伏した。

このため、謙信の攻撃を受け、城下を焼かれた。



上杉房能(?~永正4・1507年)

通称:九郎・民部大輔

越後守護・上杉房定の一子で、関東管領・山内上杉顕定の実弟。

父の後を受けて明応3(1494)年家督を相続し、越後守護となる。

永正元(1504)年、実兄の関東管領・上杉顕定を助けるべく、越後勢を率いて関東に出兵し、扇谷上杉朝良を攻める。

しかし、越後国内においては在地領主らの既得権益を否定する挙に出たために彼等の反発を受け、守護代・長尾為景とも対立した。

やがて、為景の軍と戦いになり、永正4(1507)年8月7日、越後国松之山郷にて敗死した。