長尾顕方( ?~? )

通称:孫次郎。尾張守。

顕忠の養子となり上野国総社長尾氏を継ぐ。

永正7(1510)年に勃発した武蔵国神奈河の権現山合戦では上杉憲房方について、陣代として矢野憲俊を出陣させた。

ところが、山内上杉家の憲房と顕実が対立するようになると、今度は顕実方につく。

その後、北条氏が関東に勢力を伸ばしてくると、北条方に付く。

永禄6(1563)年に武田信玄が上野国に侵入すると、顕方は謙信を頼り、越後に移った。




長尾顕忠(?~永正6・1509)

通称:孫五郎・修理亮・尾張守・康安聖空

上野惣社長尾氏の当主。顕忠の一子。

山内上杉顕定に仕え、その命により武蔵国入間郡方面に出陣することもあった。

永正6(1509)年正月9日没。

同年、顕忠の妻・幸春は亡き夫の菩提を弔うために本領のうちに土地を寄進し、円覚寺に塔頭・龍隠軒を建立した。




長尾顕長(?~元和7・1621年)

通称:新五郎・但馬守・法名:関英宗鉄

上野新田金山城主・由良成繁の一子。

足利長尾景長の娘を娶り、その家督を継ぎ、足利城主となる。

北条氏に属し、天正18(1590)年の小田原の役の際には北条方について戦った。

戦後、所領を没収され、一時常陸の佐竹義宜に預けられるものちに流浪の身となる。

元和7(1621)年5月8日没。




長尾景長(文明元・1469~大永8・1528)

通称:新五郎・但馬守・笑泉斎・笑岩禅香

足利長尾氏の一族。

兄の定景が早世したため、叔父の房清の後見の下に家督を継ぐ。

山内上杉氏の重臣となる。

書画に秀で、自画像や山水図などの作品がある。

大永8(1528)年正月15日没。




長尾景長(大永7・1527~永禄12・1569年)

通称:新五郎・但馬守・心通禅空

足利長尾氏で、下野足利城主。

永禄5(1562)年、館林城を落とした謙信に同城を預けられた。

同12(1569)年、越相同盟が成立すると景長は由良成繁とともに上杉・北条との仲介に活躍した。

同年7月15日没。




長尾景春(嘉吉3・1443~永正11・1514年)

白井長尾氏の当主で上野白井城主。

景信の一子。

山内上杉氏の家中において本来自分が得られる地位であった家宰の職が一族の景忠に与えられたことに不満を持ち、主家に背く。

文明8(1476)年、武蔵鉢形城を築城してそこに拠り、関東管領・上杉顕定と戦う。

以後20数年間、武蔵その他で活躍する。知略に優れた勇士といわれている。

永正2(1505)年白井城に入ったが、同6(1509)年には上杉憲房に城を奪われ、柏原城に退く。

だが、翌年の6月に管領・上杉顕定は越後で敗死し、彼に同陣していた憲房が白井に退却してきたのを討って白井城を奪還した。

永正11(1514)年9月没。




長尾景英(文明11・1479~大永7・1527年)

通称:孫四郎・四郎・左衛門尉・明岩窓哲

白井長尾景春の嫡子で上野白井城主。

父・景春の没後、古河公方の勧めにより山内上杉氏と和睦した。

大永7(1527)年12月5日没。




長尾景誠(永正4・1507~享禄元・1528年)

通称:孫四郎

白井長尾氏の当主で景英の嫡男。大永7(1527)年の父の没後に家督を継ぎ白井城主となる。

箕輪の長野信業と厩橋の長野方業に圧迫されていた蒼海城主・長尾顕景の為に越後の長尾為景に援助を求める。

享禄元(1528)年1月24日、家臣により暗殺された。




長尾定景(?~文明18・1486年?)

通称:新五郎・但馬守・総岳道統

足利長尾氏当主で景人の一子。

文明4(1472)年、下野足利の鑁阿寺(ばんなじ)に禁制を出したのは定景と推定される。

同8(1476)年から叔父・房清が定景の弟・景長の後見を務めているところから、定景は早世したとみられている。




長尾定景(永禄11・1568年~ )(爆)

通称:三四郎。播磨守。

肥前長尾氏の出にして塞都・謙信屋形館主。

平成13(2001)年の3月に謙信屋形を築城するとともに上杉姓を名乗り、上杉系塞都の重鎮として、その名を全国に広める。

また、「西海の雄・宇久五島氏」や「武蔵春日山駅」なる塞都の構築をしたのも定景と推定される(爆)。

翌平成14(2002)年4月の石和合戦、越後国府合戦、米澤合戦などの全国主要合戦でも華々しい活躍をする。

平素は地道な資料の調査や史跡廻りを元にした塞都コンテンツの拡充に努め、謙信公の名を高めていくことに余念がないという。

(それにしても、こんなこと普通自分で言うかねえ…笑)



長尾重景(?~文明14・1482年)

通称:信濃守・弾正左衛門尉・法名:林泉寺殿実渓正真

頼景の嫡子で守護代職を継ぐ。

越後守護・上杉房定を補佐して関東に出陣し、多くの戦功をあげた。

応仁元(1467)年、房定の次男・顕定が関東管領に就任し、重景は房定に協力して幕府と古河公方との和睦に努め、その結果、文明14(1482)年「都鄙合体」に成功した。

同年2月25日没。




長尾忠景(?~文亀元・1501年)

通称:修理亮・尾張守・敬叟皎忠

惣社長尾景仲の一子で武蔵守護代。

関東管領・上杉顕定は彼を家宰に取り立てた為に、甥の景春は主家に背き、古河公方・足利成氏と結んだ。

忠景は顕定と行動を共にし、鉢形城などの在番も務めた。

文亀元(1501)年閏6月29日没。




長尾為景(?~天文11・1542?)

通称:六郎・弾正左衛門尉・信濃守・道七。

謙信の父にして長尾能景の嫡男。

父・能景が永正3(1506)年に越中に出陣し、一向一揆との戦いで戦死すると越後守護代長尾家を相続する。

為景は父を一向宗徒に殺されたことにより門徒を敵視し、越後国内での一向宗を禁教とした。

これは謙信の代に本願寺と同盟を結ぶまで続いた。

翌年、守護・上杉房能の養子である定実を擁立した上で守護・上杉軍と戦い、房能を自害に追い込む。

これは守護である房能が、守護代や在地領主達の既得権的な権益を否定する挙に出たため、彼らを意を汲んでの挙兵を言われている。

永正7年に房能の実兄である関東管領の上杉顕定が、弟の仇である為景の討伐の為に越後に侵入してくると、これと戦い返り討ちにする。

この後、為景は朝廷や将軍などに献金をすることにより、嫡男に将軍の名の一字を拝領し「晴景」と名乗らせたり、「毛氈の鞍覆」や「白笠袋」の使用免許を得る(これらは守護大名にしか使用が認められていなかった)など、守護大名の格式を得ることに成功する。

しかし、一方では為景の強引な政策に反発する国内の領主達も多く、その対応に手を焼かされる。

謙信が生まれた頃は特に騒然とした世相となっており、やがて為景は天文の再乱で敗北し、天文5(1536)年に嫡男の晴景に家督を譲り自身は隠居を余儀なくされる。

隠居・出家した為景は名を「道七」と改め、程なく病没されたと云われているが、最近の研究によると天文9年頃まで生存が確認されていることから、現在は「上杉年譜」に記載の天文11(1542)年没が有力視されている。

尚、為景は隠居後も守護代・晴景の背後にて実権を握っていたという。


法名・大竜寺殿喜光道七。墓所は春日山林泉寺。




長尾憲景(永正8・1511から天正11・1583)

通称:孫六・孫四郎・四郎・左衛門尉・景房・一色斎・法名:梁雄玄棟

惣社長尾顕忠の一子で白井長尾景誠が享禄元(1528)年に暗殺されると、その跡を継いで上野白井城主となった。

永禄3(1560)年謙信が関東に出陣した際には白井城に迎え入れ、小田原攻めの際には子の憲春を出陣させた。

その後も謙信に従ったが、その没後に武田勝頼が上野に進出すると一時これに属し、武田氏が衰えると今度は北条氏に従った。

天正10(1582)年、織田方の滝川一益が上野厩橋城に入ると今度は彼に従い、本能寺の変後に一益が上野を撤収するとまたもや北条氏に属し、子の烏坊丸(政景)を人質に送った。

天正11(1583)年4月1日没。




長尾憲長(文亀3・1503~天文19・1550年)

通称:新五郎・但馬守・嶺叟禅東

大徳寺周清の一子。

関東管領・上杉憲房の家宰であるが、その没後は養子の憲寛の家宰となる。

古河公方・足利高基の一子・亀王丸の元服に当たって将軍・足利義晴の一字拝領を望み、越後守護代・長尾為景にその口入を依頼した。

亀王丸は元服し「晴氏」と名乗った。

このことで憲長は但馬守の受領名を得た。

天文19(1550)年3月23日没。




長尾晴景(永正9・1512?~天文22・1553年)

通称:道一・弥六郎・定景・弾正左衛門尉。

為景の嫡男にして謙信の兄。

正確な生年は不明であるが、一説に謙信の母・虎御前とは同年代であることから生母は別に居ることが分かる。

天文5(1536)年の為景の隠居を受けて家督と守護代職を継承し、政権初期は隠居した為景の指導の下で政権を担当する。

為景の強引な政策に代わって柔軟な路線で国内の諸領主達との宥和策で一応は越後に平和をもたらすことが出来た辺り、従来云われていたような無能な為政者では決してなく、なかなか政治力に富んだ人物と考えられる。

同族でありながら犬猿の仲であった上田長尾氏の嫡男・政景に妹・仙桃院を嫁がせて縁戚関係を結び、彼らを取り込むことにも成功したこと、また、長尾一族の地域支配の強化の為に、林泉寺に入っていた謙信を呼び戻して元服させ中越の押さえとすべく栃尾城に配したことなどはその例の一部であろう。

だが、この後晴景が病気がちになり、床に伏せる日が多くなってくると、またもや国内の在地勢力の蠢動が始まり、越後は戦乱の中に引き戻されてしまうのである。

自身が思うように動けない反面で、先に栃尾に派遣していた謙信の武名が高まってくると、晴景と謙信との間は険悪になり一発触発の危機に陥る。

やがて、守護・上杉定実の仲介の元で和睦し、晴景は謙信に家督を譲り、隠居した。

天文22(1553)年に病没。法名・千厳院殿華岳光栄。

子は猿千代という者一人と云われている。





長尾能景(長禄3・1459~永正3・1506)

通称:弾正左衛門尉・信濃守。

重景の嫡男にして謙信の祖父。

荒川館を本拠に守護代として勢威を振るう。

永正元(1504)年、関東管領・上杉憲定の要請により関東に進出し、武蔵国川越城を攻略する。

同3(1506)年には越中に進出してきた加賀の一向一揆勢力と戦うも、越中の般若野にて戦死した。

墓所は春日山林泉寺。




虎御前(永正9・1512?~永禄11・1568年)

栖吉城主・長尾顕吉(一説に房景とも)の娘。仙桃院・謙信の母。

実名は不詳で謙信の前名である景虎(幼名・虎千代)の母ということから「虎御前」と呼ばれていたようである。

大永3(1523)年頃に政略結婚により12歳で守護代・為景に嫁ぎ、13歳で仙桃院、15歳で一子(名は不詳)、18歳で謙信を生んだという。


ちなみに為景の嫡男・晴景は謙信とは18歳くらい上とのことで、そうすると晴景と虎御前は同じくらいの歳だということになり、母子関係というのはありえない(義理の母子ではあるが)。

虎御前は為景の前妻の後を受けて後妻として嫁いできたものと思われる。



幼少の謙信に対し神仏に対する信仰心を叩き込み、後年の謙信の信仰の篤さはこの母によるところが大きい。


為景の没後は仏門に入り、春日山裏手に庵を結んでそこで起居するが、その後も謙信の精神的支柱となっていたようである。


永禄11年5月7日没。

法名・青岩院殿天甫輝清大姉。墓所は春日山城裏手の宮野尾にひっそりと佇んでいる。