そして戦いの火蓋は切って落とされた。
我が上杉軍は車懸かりの陣で鉄砲隊、本庄槍隊、抜刀隊を順に繰り出して武田軍を攻撃する。
それに対抗して、武田方も鉄砲隊、内藤槍隊、抜刀隊にて応戦。
彼の内藤槍隊には碧雲斎殿、米屋殿が居る。
鉄砲隊の後を受けて両槍隊がぶつかり合う。
碧雲斎殿とそれがしとの対決、奇しくも石和での大将と副将との対決である。
それがしは槍をヘリコプターのプロペラの如く振り回し、彼を仕留めんとするも勝敗は容易にはつかない。
ついでに米屋殿とも立ち回りをしようと探すが、見つからなかった。
乱戦の途中突然照明が消え辺りは真っ暗闇に…(瀧汗)
さては敵の忍者による撹乱工作か?!
しばらくして照明が点き、再び乱戦へ。
2回、3回と我が上杉軍の車懸かりの攻撃、それに呼応する武田軍の応戦が繰り返される。
何回出撃したのか覚えていない。
途中上杉軍最強(爆)・姫武者隊、子供武者隊の大活躍、謙信・信玄の一騎討ち「三太刀七太刀」の場面がある。
激戦につぐ激戦、
息が切れてへたりこみそうになるも互いに励ましあって持ちこたえる。
隣の姫武者隊を見ると、小学生と思しき少女がおり、あまりの暑さ、疲れに泣きそうになっている。
それをなだめ、励ましている一緒に参加している母親。
そうした激戦の末、合戦は終了。 |
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(提供:梵天丸殿) |
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にらみ合う信玄公と謙信公 |
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両雄対決!! |
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合戦に出た上杉・武田両軍の諸将が舞台上に上がり、我々兵たちはその下にて観客の方を向いて挨拶をする。
BGMとともに終了のナレーション、参加者全員の名前が読み上げられ、それを聞きながら退場し、会場を後にする。
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戦いに疲れきった我々兵たちが小学校を目指し、無言で暗い夜道を歩く姿は傍から見たら、さながら敗残兵、落ち武者の如く映ったろう…
小学校に着き、武装解除し、着替えて身軽な姿に…。
そして用意された麦茶に乾ききった喉を潤す。
ここで初めて兵達の顔に明るさが戻り、配られたちまきを食べながらしばし歓談。
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そして我々参加者は近くの公園に設けられた打ち上げ会場に向かい、麦酒で乾杯。
バーベキューに舌鼓を打つ。 |
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ここかしこで繰り広げられる歓談の輪。
ここでは地元の方々、市役所職員、県内外の一般参加者の別なくざっくばらんに語り合い、楽しい時を過ごす。 |
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そして楽しい時はあっという間に過ぎ、お開きとなった。
最後に記念撮影をしたのであるが、後ろにはこの祭りに参加したくても種々の理由で無念にも参加出来なかった方々の魂が写っている(爆)。
ちなみに甲冑姿の生き霊は相模守太郎殿らしい(劇爆)。 |
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この後、我々は高田の繁華街の唐桶箱にて後夜祭を開催。
後日「裏謙信公祭」(爆)と云われたこの後夜祭の狂乱ぶりは後日様々に語り継がれることとなったのである。 |
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狂乱の宴は果てしなく続くかに見えたが、午前2時を過ぎたところで、お開きとなる。
ここで事件が…(瀧汗)
めいめい会計を済ましていくうちに碧雲斎殿が50円しか持っていなかったことが判明したのである。
彼は合戦の後はお金を使わないだろうと思い、有り金のほとんどは宿に置いてきたらしい。
確かに大金を落とさない用心ということからすると賢明ではあるが、この時にはそれが裏目に出たようだ。
幸い大した金額ではなかったので皆で出し合って事なきを得たものの、この時から「50円の少年」と呼ばれることとなる(2003蘭丸では「100円の少年」に昇格…笑)。
会計の後、猛馬飼育係殿と碧雲斎殿はタクシーで春日山旅館へ、そしてそれがし共は直江津の宿へ戻る。
そして、宿で惟新殿の御挨拶で締めくくり、各自は部屋へ。
それがしはシャワーを浴びて即座に就寝した。
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翌朝、起きて窓の外をみると、前日の見事な晴天とは打って変わってしとしとと雨が降りしきっていた。
憂鬱である。前日の晴天は一体何だったのであろう?まさに毘沙門天の加護の奇跡だったのか?
とりあえず部屋のリラックスチェアーで全身を揉み解したあと、1階で朝食を摂る。
途中、肥前守左馬之助殿がやってきて、話をしながら食事をする。
そのあとロビーでは米屋殿、惟新殿、のりび殿が雑談していた。
この時あゆみ殿は朝一番の特急で秋田に戻ったため既にいなかった。
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彼らとしばし雑談のあと、猛馬飼育係殿に電話をしたあと、うーろん殿の車に乗せて頂き、春日山旅館前で猛馬飼育係殿、碧雲斎殿と落ち合う。
そして、うーろん殿、じーや殿とはここで別れる。
3日間本当に忝ないです。
この場で御礼申し上げます。
それがしが着いた時、女将殿が玄関から出てきて車で銅像前まで3人を乗せて呉れた。
ここから城跡を探索する。
甘粕景持屋敷跡、柿崎景家屋敷跡、大井戸を経て本丸に到達する。
そして毘沙門堂に来たところで困ったことに気が着いた。
それがしが腰につけていた巾着が見当たらないのである。
中には「毘」の扇子が入っていただけではあるが、思い出のある扇子なので今まで来た道を戻って辺りを見回すも見つからなかった。
この時雨の中であるにも関わらず2人も付き合ってくれたが見つからず申し訳ないことをした。
結局諦めて、春日山茶屋に戻り、昼食を摂る。
それがしは「謙信そば」を食す。
どこがどう謙信なのかよくは分からないが、思うに謙信だけに「手討ちそば」なのであろう(爆)。
食事のあと、土産を購入し、林泉寺に詣で、墓所にお参りし、宝物館を見物する。
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柿崎景家屋敷跡。
その屋敷地の広さ、位置などから彼の上杉家中での地位が分かる。(城における屋敷地が高い位置にあり本丸に近ければ近いほど家中での地位も高い)
ここには現在は池も堀もないが、その植生からかつてはそれらがあったということが分かるらしい。
もしや彼も「黒鱒」を飼っていたのだろうか(爆)? |
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通算5度目となる本丸制覇。
ここにはいつ来ても感慨が沸き起こる。 |
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毘沙門堂。
当時はこの位置にはなく、しかももっと大きかったらしい。 |
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手討ち蕎麦の(爆)「謙信そば」 |
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ふと銅像を見上げると謙信公が出現(爆)!! |
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林泉寺謙信公墓所 |
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謙信公墓石。
御尊骸はむろんここにはなく、米澤の御廟所に祀られている。 |
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川中島の敵味方の戦没者の霊を慰めるために建てられた供養塔。 |
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謙信公の父長尾為景公・祖父能景公の墓石(どっちがどっちなのかよく分からない) |
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長野驛弁「笹寿司」 |
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このあと、我々はそのまま解散することにしたが、この時碧雲斎殿が扇子を落としたことに気付く。
猛馬飼育係殿は列車の時間の関係もあったためそのまま別れ、在来線・新幹線を乗り継ぎ関東に帰陣。
それがし共は史跡広場に祭り担当者を訪ねる。この時雨のせいで当初予定の行事はすべてキャンセルし、片付けに入っていた。そして出店も片付け・撤収を始めていた。
近くの係の人に聞くと丸竹産業殿は既に直江津を発ったとのことで、落し物は市役所の方で扱っているらしい。
この時点でそれがしの方も電車の時間が迫ってきていた。
碧雲斎殿に市役所の方とコンタクトをとるように言い残し、彼と別れて春日山驛へ向かう。
荷物を持って小雨の降る中を急ぎ、ぎりぎりで電車に間に合い、長野行きの電車に乗る。
ここで夕食の長野驛弁「笹寿司」を購入し、食す。
なかなかの美味である。
機会があったら食べてみると宜敷い。
そして甲府、高尾を経て国立に着いたのは0時近くになった頃であった。
かくしてそれがしの2003謙信公祭は無事に終了したのであった。
(完)
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