■上杉氏の退去以後の越後国府

慶長3(1598)年景勝は突如会津に転封となり、あとに堀秀治が45万石で封ぜられた。この転封に際して士分以上の者の多くは会津に付き従い、残った者たちは帰農して農民になった。これにより越後の兵農分離は完全になされたのである。

 それから間もない慶長5(1600)年関ケ原の戦いが起きた。そしてそれと呼応して越後遺民一揆が起きた。彼らの中には少なからず越後に踏み留まった上杉家の浪人が含まれるがこれを陰で糸を引いていたのが直江兼続だと言われている。
結局一揆軍は堀氏を始めとする東軍に鎮圧され一揆終焉を迎えたのである。

 堀氏は戦後所領を安堵されたが、居城の春日山城が難攻不落であることが幕府の警戒心を呼ぶことを危惧し、海に近い平城である福嶋城に居城を移しそれまでの春日山城を廃城としたのである。これにより長尾氏以来の名城の歴史は永遠に終りを告げたのである。

 堀秀治は慶長11(1606)年病没し嫡男の忠俊が継いだが家中の内訌により、除封にあい、代わりに家康の6男松平忠輝が75万石で入った。忠輝は水害の難を避けて高田に居城を築きそこに移った。そして整然とした城下町づくりを手がけたものの大阪夏の陣の翌年元和2(1616)年、兄秀忠の怒りを買い所領没収の上伊勢に流された。その理由は様々に言われているが今なお謎である。

 忠輝のあと親藩、譜代大名が封ぜられたが、いずれも小藩でありまた領主もめまぐるしく交代している。

 しかし寛保元(1741)年播磨姫路から榊原政永が15万石で入るとようやく落ち着きを見せ、以来榊原氏の領国として明治維新まで続く。

 だが幕末の戊辰戦争の際には徳川四天王の家柄でありながら官軍に着いて戦った。

 やがて明治の世となり鉄道が敷かれるとここは信越本線と北陸本線の分岐点として重要な位置を占めるに至り、また直江津港はその外港として産業の振興に多大な貢献を果たした。現在も直江津港は韓国、中国からの船舶が出入りし国際港の様相を呈している。

 現在は上越市となっている。