■上杉景勝(弘治元・1555~元和9・1623年)

謙信の後継者・上杉景勝は弘治元(1555)年11月27日、長尾政景の次男として魚沼郡上田庄の坂戸城に生まれた。幼名卯松(うのまつ)、初名を喜平次顕景(きへいじあきかげ)と称した。

景勝と名乗るのは彼が22歳の時弾正少弼に任ぜられて以後のことである。母は謙信公の姉仙桃院である。兄は夭折したため上田長尾氏の嫡男として育てられた。下には妹が二人おり、同じく謙信の養子である景虎と上条政繁に嫁いだ。

しかし父政景は永禄7(1564)年の夏に舟遊びをしているときに誤って溺死する。景勝10歳の時のことである。この事件について色々取りざたされているがここでは取り上げないことにする。この事件以後謙信の養子になったものと思われる。

22歳で任官、軍役帳にも御中将様の名で記載されているのが見える。これより少し前に樋口与六(のちの直江兼続)は彼の近習となったらしい。

天正6(1578)年3月13日養父謙信が急死した。この時より越後を二分する壮烈な後継者争いが繰り広げられることとなる。

景勝は謙信の遺言と称していち早く春日山城本丸、兵器蔵、金蔵を占拠し、自身が正当な後継者であることを内外に知らせた。この時に彼の側近くに仕え作戦をねったのが、直江景綱の娘お船の方と樋口与六であった。

これに対する景虎方は前関東管領上杉憲政の屋敷である「御館」に篭り応戦する。当初景勝方が劣勢であったが、武田勝頼の応援もあって次第に景虎方を追いつめ、ついにこれを滅ぼしたのである。その残党は天正9(1581)年まで抵抗を続けたものの景勝方の勝利に終り、乱は幕を閉じるのである。

だが内乱を治めたばかりの景勝を取り巻く環境は極めて厳しいものがあった。

越後国内では御館の乱の論功行賞に対する不満から部将の新発田重家が信長に誘われて反旗を翻し、外部からはこの越後の内乱に乗じて織田信長の軍勢が北陸に攻めて来たのである。謙信が晩年支配下に置いた上信、北陸の諸国はことごとく信長方の諸将に奪われた。

天正10(1582)年3月11日景勝は信長軍の越後への侵攻を食い止めるべく魚津城の死守を山本寺景長ら諸将に命じた。ついで自らも魚津に赴こうとするも直江兼続公の諌めもあって動けず、6月3日、包囲されること80余日で魚津城は落城し城将たちはことごとく玉砕した。

これより少し前の6月2日本能寺の変で信長が倒れるとその知らせを受けた織田方の軍勢は撤退を余儀なくされ景勝は窮地を脱することになった。その時中国攻めに赴いていた部将の羽柴秀吉はいち早くその仇を討ち、柴田勝家を討ち、佐々成政を下すことにより信長の後継者の座についた。

これを見た景勝は兼続と謀り秀吉に臣従することで領国を保つことにする。

天正14(1586)年5月20日景勝は、初めて上洛し秀吉と謁見し白銀500枚、越後上布300端、馬50匹を献上した。そして7月6日春日山城に戻った。

翌天正15(1587)年8月大軍を率いて新発田に向い新発田重家のいる新発田城を攻略した。重家は秀吉からもしばしば降伏勧告をされているにもかかわらず、頑として降伏しようとはしなかったのである。9月には属城が次々と陥落し10月には新発田城を囲まれ重家はついに自害して乱は終結したのであった。

天正16(1588)年4月には景勝は再度上洛し、秀吉と謁見し九州平定の祝賀と新発田重家の討伐の報告を述べた。翌5月には従三位参議に叙せられた御礼に参内し、後陽成天皇より天盃を賜った。

その年潟上城主本間秀高に書状を送り、翌年佐渡征伐を行うことを通告した。
佐渡は鎌倉以来在地豪族である本間氏が治めているのであるが、戦国期には本間一族が各地に割拠し、同族間の争いに明け暮れていて、秀吉、景勝の度々の停戦勧告にも応じなかったため今回討伐に踏み切ったのであった。

天正17年6月景勝はみずから千余艘の軍船を率い、沢根城主本間左馬助の協力を得て河原田城、ついで羽茂城を攻め、これを落とした。敵対した本間一族は自害ないし斬殺されここに400年あまりにわたって栄えた本間氏は滅亡した。

一方景勝方についた本間氏の諸将も従来の所領を没収され、新たに越後国内に所領を与えられることで本間氏は完全に佐渡から一掃されたのである。余談ではあるが彼ら本間一族は景勝が越後から会津、米沢に転封となったあともともに付き従っている。

戦後佐渡一刻は兼続配下の与板衆、景勝配下の上田衆に配分された。

天正18(1590)年、秀吉は小田原攻めを起こしたが、3月に景勝も参陣した。4月に道寺政繁の松井田城(群馬県碓氷郡松井田町)、6月に北条氏邦の鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)、ついで北条氏照の八王子城を攻略した。
そして7月には北条氏直の小田原城も落城し、これを以って秀吉の天下統一は完成した。

ここで太平の世が実現するかに見えたのであったが、こんどは秀吉は今度は朝鮮、明に出兵すると言い出したのである。

文禄元(1592)年3月、景勝は兵5000を率い春日山城を発し、4月に名護屋城(佐賀県鎮西町)に到着した。
6月には秀吉の名代として渡海し釜山(プサン)に上陸、熊川(ウンチョン)城で諸軍を指揮し、翌年9月に名護屋城に戻った。

慶長3(1598)年1月に景勝は突如会津への移封を命じられた。それまでの石高は91万石に対して、新領土は120万石と大増封であった。この移封については様々に論じられている。
すなわち秀吉が越後以来の上杉軍団の力を恐れ、故地と引き離すことでその力を半減しようとしたこと、また越後の豊富な金山を手に入れたかったことなどである。

そういう名目で徳川家康、伊達政宗も増封の名のもとに転封を余儀なくされているがこれは大名にとっては危険極まることでもあった。全く縁も縁もない土地ということもあり、そこには新領主の出現を快く思わない在地の国人領主、領民もおり、彼らをうまく抱き込むかどうかでその大名の運命が決まるといってもよかったのである。
下手をすれば大規模な一揆が起こりかねないし、肥後に転封になった佐々成政はその統治に失敗して改易、切腹を命じられたくらいである。

ついで徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家らとともに五大老に任ぜられた。

その年8月に秀吉は嫡男秀頼の後見を託し死去した。

だがその直後から五大老筆頭の徳川家康は独断専行の振る舞いを露骨にし始めたのである。そしてこれを除こうとする石田三成らとの対立が激化したのである。

一方景勝は秀吉の死の直後の8月17日に会津を立ち、10月7日に伏見に入り、家康とともに五大老として朝鮮からの撤兵と講和問題に奔走した。

翌慶長4年8月に会津に帰り、領内の支城の普請、道路や橋梁の整備、その他軍備の拡充に努めた。だが、これらの様子を見た堀秀治や戸沢政盛らは家康に対し、景勝が謀反を企てていると密告したのである。

これを聞いた家康は景勝に上洛と謝罪を要求したが、それに対して直江兼続は釈明の書を送りつけ、要求に応じようとはしなかった。かの有名な直江状である。

それを読んだ家康は激怒し、諸大名に会津征伐を呼びかけたのである。
慶長5年6月18日、伏見を発った家康は江戸城に入り、軍議を開いたのちに会津に向った。だが途中の小山まで進んだところで石田三成挙兵の報が入り、急遽引き返すことになったのである。

実はこの会津征伐は初めから三成を挙兵させるための陽動作戦だったのであった。
小山には家康次男の結城秀康を会津への押えとして残し、全軍を西上させた。
この様子を見た兼続は追撃を勧めたが、景勝が頑として承知しなかったため、みすみす好機を逃してしまうことになる。
一方、国境を接する最上義光は家康方に属していたが、最上軍が酒田城を攻めようとするのを見て、景勝も兼続に命じ最上領へ侵攻させ、9月13日には最上方の畑谷城(山形県山辺町)などを攻略した。

こうして山形城が孤立無援となるに及び、義光は甥の伊達政宗に援軍を要請した。
政宗は叔父の伊達政景に500余騎と鉄砲隊100人を添えて山形に応援に行かせた。

兼続はさらに水原親憲、春日元忠、上泉泰綱らとともに長谷堂城(山形市)を攻めるもなかなか落とせず、膠着状態が続き、そんな中で9月29日に西軍の敗北が会津の景勝の元に届いたのである。
これを聞いた景勝は驚き、全軍に撤退を命じた。

所変わって越後では景勝・兼続の煽動した上杉遺民一揆がようやく鎮圧されつつあった。

だがこれで戦いが終結したわけではなく、東軍方の諸大名とは戦争状態が続いていた。
翌慶長6年4月には酒田東禅寺城代の志駄義秀は最上方の侵攻に対し一戦を交えてもいる。
しかし最上軍の増強に対して劣勢となり、志駄は米沢に落ち延びたのである。

ところで景勝は和議の道を模索し、結城秀康、本多正信・忠勝、榊原康政らの仲介で家康に会い謝罪することにした。同年7月1日上洛し、8月16日秀康に伴われて伏見城で家康に会見し謝罪した。
この結果、翌17日に米沢30万石(伊達、信夫、置賜)への減封が決まった。
ここはもとは直江兼続の領地であり、景勝をはじめとする上杉家中はこの領地に押し込められることになるのである。
だが景勝は減封となった後も家臣団の解雇は極力しない方針をとった。それが彼にとっての意地であったのであろう。
家臣団の総数は6000余名と言われているが、これは数十万石の大名の家臣団に匹敵するものであった。こうした状態は後年の綱勝急死後の減封の後もほとんど変わらず、明治維新まで謙信公以来の家臣団が温存されているのである。

景勝は直江兼続の執政のもとで民政に力を注ぎ、米沢城下の整備、原方といわれた辺境の開発などを手がけた。
しかしそれらは米沢入部後数年経ってからのことであった。江戸城・駿府城修築などの幕府により課せられる莫大な御手伝普請のためであった。
景勝はそれらに唯々諾々として従い律義に勤め上げた。そして大坂冬の陣、夏の陣では兼続とともに大坂城を攻め武功を立てた。

その4年後の元和5年12月に、これまで共に上杉家を盛り立ててきた直江兼続が60歳で世を去った。
景勝は「わしより先に死ぬる奴があるか」と泣き悲しんだという。

その4年後の元和9年3月20日、69歳を一期として不世出の剛将・上杉景勝は薨去した。