■直江兼続(永禄3・1560~元和5・1620年)

長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の長男として坂戸城下に生まれた。幼名を与六、元服して兼続と称した。

謙信の姉、仙桃院に見出され謙信に小姓として仕えることになる。

天正6(1578)年のお館の乱の際には景勝の参謀として軍を指揮し彼を謙信の後継者として立てることに尽力することで家中での立場を高めることになる。

一方直江家では先代の景綱に男子がおらず、養子信綱を迎えていたが、彼がお館の乱の際の論功行賞のトラブルに巻き込まれて春日山城中で斬殺されてしまった。

名門である直江家が絶えるのを惜しんだ景勝により兼続は直江家を継ぎ、景綱の娘お船の方を娶った。直江兼続の誕生である。

以来彼は上杉家の執政として軍師としては無論のこと、行政、民政など多方面において力を発揮しその領国の繁栄に多大な貢献をした。

慶長3(1598)年景勝が会津に転封になると兼続は秀吉からその領国のうちから特に米沢30万石を与えられた。これは陪臣としてはいうに及ばず一般の大名としても異例の措置である。いかに彼が重要視されていたかが分かろうというものである。

やがてその年8月に秀吉が死去すると上方では不穏な動きがあった。五大老の一人徳川家康が独断専行の動きを露骨にし始めたのである。そして景勝にも上洛を強要する。

当時転封されたばかりでもあり彼は新領国の経営に専念しておりそれどころではなかったのであるが、そのことについて反逆をもくろんでいると決め付け会津へ上杉景勝征伐の軍を起こしたのであった。これに対して兼続は豊光寺侍者宛てに激烈な論調で書状を認めた。俗に「直江状」と呼ばれているこの書は家康にも届けられた。しかし家康は直談判して景勝を糾明するとして会津行きを断行した。

家康率いる征伐軍は小山まで来るとそれ以上は北上せず、踵を返して江戸へと向った。これを見た兼続はこれを好機とばかり追撃を主張するが、背後からの攻撃を卑怯とする景勝により阻止され追撃はなされなかった。

そして関ケ原の合戦では東北方面の西軍主力として伊達、最上を向こうに回して戦う。だがほどなく、西軍敗退の報を聞き、軍を引いた。

翌慶長6(1601)年兼続は景勝とともに上洛し、家康に謝罪し追って沙汰を待つことにする。数ヶ月後米沢30万石に減封とかなり厳しい処分があったが、除封を免れ、遠隔地への転封もなく旧領地の一部に留まることができたのは兼続、景勝の政治力の賜物であろう。

兼続は戦後なお6万石を与えられたが、そのうち5万石を上杉家中の武士たちに分け与え、残り1万石のうち5千石を配下の家臣たちに分け与え自身は5千石で過ごしたという。これを見かねた景勝は彼にさらに1万石を与えたという。

彼は米沢でも行政、民政家として藩の基礎を固めた。また彼は和歌の道にも秀で文化人としても名高く様々な書物を後世に残している。
元和5(1620)年江戸で死去。

子は嫡子景明と娘が一人いるがいずれも兼続に先立って死去。また本庄繁長の子与次郎、本多正信の次男政重を養子に迎えているがいずれも実家にもどり、このため直江家は絶家となった。

兄弟は弟2人がいるが実頼は小国家を継ぎ、のち家名を大国家と改めた。次の弟秀兼は樋口家を継ぎこの家系は後世に伝わっている。