秋山定綱( ?~? )
通称:伊賀守、式部丞、時綱とも
落水城主であったがのちに糸魚川城に移った。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると彼は糸魚川衆として490石を知行していた。
景勝の会津転封に従い二本松城城代として2000石となった。
しかし関が原後の景勝の米沢移封により320石となった。


■鯵坂長実( ?~? )
元亀3(1572)年から越中国新庄城を守り一向一揆軍と戦った。
謙信は天正5(1577)年から能登七尾城を占領すると長実に守備を命じた。
しかし同7(1579)年8月、織田信長と組んだ畠山氏の旧臣温井氏や遊佐氏のために城を追われた。


■甘粕景継( ?~? )
通称:備前守
景勝の臣。
天正17(1589)年に出羽国庄内地方が上杉氏に与えられると東禅寺城の城代となり同19年家老の志田修理をして阿部氏の磐井出館を攻め落とさしめた。
慶長3(1598)年、景勝の会津転封の際には白石城代となり同5(1600)年の神指城の普請の際には奉行直江兼続のもとで小奉行を勤めた。


■甘粕景持 ( ?~? )
通称:近江守、景時とも称した。
謙信の臣。小荷駄奉行。
永禄4(1561)年の川中島合戦で本隊が敗走した際には軍をまとめ、香坂弾正の追撃をかわしながら小荷駄を無事に後方に移送し帰国した。


甘粕長重( ?~? )
通称:近江守
謙信の臣。
桝形城城主であるが、天正10(1582)年には三条城城主となった。


鮎川清長( ?~? )
通称:摂津守
越後国岩船郡大葉沢城主。本庄氏支族。
天文8(1539)年には本庄城を攻めて本庄房長を出羽に追った。
のちに色部氏の調停で本庄氏と和睦したが、本庄繁長が謙信に反逆した際には上杉方について戦った。


鮎川盛長( ?~? )
通称:孫次郎
清長の男で父の跡を受け、大葉沢城主となる。
父と同じく本庄繁長の反乱の際には上杉方について戦い、謙信没後も度々繁長と争った。


新居長重( ?~? )
通称:与一
上野の長尾景長の臣。
永禄4(1561)年、謙信は勢多郡の女淵城を占領し長重を城代とした。
のちに城は横瀬氏に奪われたが天正2(1574)年に奪還し、再び城代となった。


荒川長実( ?~? )
通称:伊豆守
永禄4(1561)年の川中島の合戦の際には謙信と信玄が一騎討ちをしたという話は「甲陽軍鑑」などで有名であるが、「上杉家御年譜」によるとこの時の謙信は実は長実が扮していた影武者だったという。上杉軍の中で選びぬかれた5人の旗本の一人とされているが、詳細な来歴は不明である。荒川弥次郎なる者の一族であると言われている。


荒川弥次郎( ?~? )
岩船郡荒川保の領主である。
天正3(1575)年の「上杉氏軍役帳」や同5(1577)年の「上杉家中名字尽」にその名が見える。