■泉沢久秀( ?~元和元・1615年) 通称:河内守 景勝の奉行人。 景勝領国(越後、信濃川中島四郡、佐渡、出羽庄内三郡)諸将の知行定納高と公役人数を記した「文禄三年定納員数目録」を作成。 これによると久秀は5643石、軍役は338人半であった。 慶長3(1598)年の会津転封に従い荒砥城11000石の城代となる。 関が原後は2815石となる。 元和元(1615)年3月没した。嗣子はなく苗字断絶した。 |
■五十公野右衛門尉( ?~? ) 新発田氏支族。謙信側近。 天正3(1575)年の「上杉氏軍役帳」にその名が見える。 |
■五十公野信宗( ?~天正15・1587年 ) 通称:長沢勘五郎、三条道如斎 謙信の側近。 越後国蒲原郡三条の領主。 もと能登湯山城主長沢筑前守の家臣であったが新発田重家の室の妹を娶り天正7(1579)年、五十公野氏を継いだ。 新発田重家が景勝に反旗を翻すと信宗もそれに従ったが同15(1587)年11月24日に上杉軍に包囲され落城し、自害した。 |
■板屋光胤( ?~? ) 通称:修理亮、佐渡守、英胤、幼名:藤九郎 下総国相馬郡板屋郷に住み板屋氏を名乗りのち越後に移る。 天正元(1573)年、光胤は謙信の旗本松本鶴松の後見人となり小木城代となった。 謙信没後の御館の乱では景勝方について軍功あり吉水、富岡などを賜り、出雲崎の代官を勤めた。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると彼は知行高218石、軍役は11人であった。 没年は慶長年間といわれている。 |
■市川房綱( ?~? ) 通称:左衛門佐、幼名:長寿丸 房綱の父治部少輔信房は初め武田氏に仕え、信州市川に住したが、永禄7(1564)年謙信に属した。 天正10(1582)年6月に誓詞を以って景勝の家臣となる。 房綱は文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると知行高3349石、軍役201人であった。 景勝の会津転封に従い塩之松の四本松城代となり6700石を知行した。 |
■飯沼頼清( ?~? ) 本与板城城主。越後上杉氏の臣。 上杉房能が守護代・長尾為景と対立した時、房能方について永正11(1514)年に敗れ、没落した。 |
■芋川正親( ?~? ) 通称:越前守 芋川氏は信濃国上水内郡芋川を本領とする在地領主であった。 信玄の家臣芋川右衛門佐正章の嫡男であり、彼も当初信玄に仕えたが、天正3(1575)年武田氏を去り、上杉氏に仕える。 天正10(1582)年4月、景勝の命により牧之島城将となる。 天正18(1590)年出羽庄内にて検地反対の一揆が起きたときに大宝寺城を守っていたが一揆に抗し切れずに開城した。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると正親は4486石を知行し、軍役269人であった。 景勝の会津転封に従って白河城6000石の城代となった。 関が原の合戦のあと、景勝が米沢に移ると彼は会津大森城代となり、以後、寛文4(1664)年まで元親、綱親、高親の4代にわたり芋川氏が城代を勤めた。 |
■色部顕長( ?~天正15・1587年 ) 通称:弥三郎、修理亮 勝長の嫡男。岩船郡平林城主。 色部氏は平姓秩父氏の為長を祖とする。 為長は富士川の戦いで功があり、頼朝から越後国小泉庄色部条の地頭職を賜り、以後代々揚北衆の一人としてこの地を治めてきた。 永禄7(1564)年謙信より顕長の名を授かる。 同12(1569)年に家督を継ぐ。 元亀2(1571)年本庄繁長との戦いで功あった。 天正4(1576)年頃に家督を弟長実に譲った。 |
■色部光長( ?~寛永17・1640年 ) 通称:与三郎綱長、修理亮、長門守、幼名:龍松丸 文禄元(1592)年の長実の没後、光長が家督を相続し直江兼続の妹(樋口兼豊の次女)を妻に迎える。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、4868石を知行し、軍役292人と揚北衆では最大であった。 慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、金山城1万石の城代となった。 景勝の米沢移封以後は3330石となった。 大坂の陣などに出陣した。 寛永元(1624)年1月15日には長門守となり、同3(1626)年11月には侍頭となった。 同17(1640)年6月2日没。 彼の後は安田俊広の次男の利長が相続した。 |
■色部勝長( ?~永禄11(1568)年 ) 通称:弥三郎、修理進 憲長の嫡男。岩船郡平林城主。 為景以来の家臣である。 永禄4(1561)年の川中島合戦で功あり「血染めの感状」を受け、上野佐野城攻略戦でも功あり同城に留まる。 謙信に従い本庄繁長包囲戦の最中に没した。 |
■色部長実( ?~文禄元(1592)年 ) 通称:惣七郎 官位:従五位下修理大夫 勝長の男。景勝の臣。 天正4(1576)年頃、兄顕長より家督を相続し平林城主となる。 同18(1590)年の秀吉の命による出羽仙北一揆平定の際には大谷吉継に従って参戦した。 文禄元(1592)年朝鮮の役に参戦するも途中発病し、京都にて没した。 |
■色部憲長( ?~? ) 通称:弥三郎、右近大夫、遠江守 岩船郡平林城主。 永正10(1513)年、上杉憲房より憲長の名を授かる。 享禄3(1530)年の上条定憲の乱の際には定憲に属したが、後に為景に鞍替えした。 |
■岩井信能( ?~? ) 通称:源蔵、民部少輔、備中守 永禄6(1563)年信能は父満長と越後に来て景勝に仕えた。 天正9(1581)年9月1日に春日山城内において毛利秀広が御館の乱の際の論功行賞のもつれから山崎秀仙と直江信綱を斬殺した事件があったが、同席していた信能は秀広を討ち取った。 同10(1582)年御館の乱の功により信濃国飯山城主となった。 城下町を整備し近世飯山の礎を築いたといわれる。 同11(1583)年には父満長の隠退により備中守を名乗った。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると彼は2983石を知行し、軍役179人であった。 景勝の会津転封に従い、宮代6000石を知行した。 その後大坂の陣に参陣。 元和6(1620)年10月14日没。 |