上杉景虎(天文21・1552~天正7・1579年)
通称:三郎
北条氏康の七男にして氏政の弟。幼少の頃僧侶とすべく寺に入れられたが、のち還俗。甲駿相三国同盟の成立により甲斐に人質として送られたが、その破綻とともに実家に戻り、大叔父幻庵の養子となる。

越相同盟により今度は越後に人質として送られることとなる。しかしその後同盟の破綻にもかかわらず、謙信は手元に留めて上杉姓と自身の初名景虎を名乗らせ、景勝の妹を娶らせた。彼女との間には道満丸という嫡子がいる。

謙信没後のお館の乱で景勝と家督の座を争い、敗れて実家の小田原に落ち延びる途中追いつめられ妻とともに自害した。時に28歳。
なお、10歳になる嫡子道満丸は前管領上杉憲政とともに景勝の兵に斬殺された。




上杉景信(?~天正6・1578年)
通称:十郎
謙信の母虎御前の実家である古志長尾氏の一族で謙信が上杉家を継いだとき、景信も上杉に改姓した。一門の筆頭格として謙信とともに各地で転戦し、軍役帳には第3位となっている。天正6年のお館の乱の時に景虎方につき、居多浜で山浦国清の軍と戦い討死した。そして彼とともに古志(栖吉)長尾氏も滅亡したのである。



宇佐美定満( ?~永禄7・1564年? )
通称:駿河守
上条上杉氏の臣。琵琶島城主。
当初長尾為景に対抗して上条上杉氏の再興を目論んだが失敗に終わった。
のち謙信に従い、天文19(1550)年、策を以って坂戸城主長尾政景との同盟を成立させる。
しかし坂戸城下の野尻池にて政景と舟遊びをしている時に舟が転覆して2人とも溺死したという。
ただ、これには異説もあり、溺死したのは別な人物であって当の定満はこの事故とは無関係であり、この数年後に病没したとも言われている。


宇佐美房忠( ?~永正11(1514)年 )
琵琶島城主。
永正10(1513)年、守護上杉定実を擁して小野城に拠って長尾為景と戦ったが、同城を攻め落とされ、やむなく岩手城に後退するもここもまた落城し、討死した。


大石綱元( ?~慶長6・1601年)
通称:播磨守
武蔵衆。山内上杉氏の家臣。景勝の奉行職。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると2150石を知行し、軍役129人半であった。
慶長3(1598)年の会津転封に従い、保原城5500石の城代となった。
安田能元、岩井信能と並んで会津三奉行と云われた。
慶長6(1601)年1月12日没。


大国実頼(永禄5・1562年~元和8・1622年)
景勝の臣。樋口兼豊の次男にして直江兼続の実弟。
小国重頼の養子となり小国氏を継ぐがのち大国氏と改称した。
天正14(1586)年の新発田重家討伐軍に従軍。
同15(1587)年秀吉の聚楽第新築の際、上杉家の賀使を勤める。
文禄3(1594)年10月28日、秀吉が上杉家の聚楽邸を訪問の際には太刀一腰、小袖10、銀子50枚を献上した。
慶長3(1598)年の景勝の会津転封の際には、南山城主となり2万1000石、同心給として3300石、合計2万4300石を与えられた。
慶長5(1600)年の会津神指城築城の際には普請奉行である兄直江兼続のもとで小奉行を勤めた。
関が原合戦後の景勝の米沢移封の際には出羽高畑城主となり7000石となった。
元和8(1622)年2月9日没。


大熊朝秀( ?~天正10・1582年 )
通称:備前守
頚城郡蓑冠城主。父政秀は守護上杉氏の公銭方を勤めており、朝秀もまた段銭収納に当たっていた。
謙信政権が成立した当初は守護上杉氏の家臣である朝秀を取り込むことによりその政権をより磐石なものにしようという意図があったのであろう。
直江景綱、本庄実乃らと共に奉行人連署状に名を連ね、三老臣の一人として政務に当たっていた。
しかし謙信政権が磐石になるにつれて、旧守護被官衆である彼は政権内において次第に孤立するようになっていったのである。
直接のきっかけとなったのは上野家成と下平修理ら国人の所領争いにおいて朝秀が下した調停の結果に本庄実乃が異を唱え、彼の面目をつぶされたことであった。
さらにこの争いに嫌気がさした謙信が引退宣言し出奔するという事件が起きるとその元凶が朝秀であると目されるに至り、彼はそれまでの忍従を止め、挙兵するに至ったのである。
弘治2(1556)年、朝秀は密かに信玄と手を結び一方で葦名氏とも通じ、彼自身は越中に出奔して挙兵した。
北の葦名、南の武田とともに自身は西から上杉を挟み討ちにするつもりだったのである。
しかし越後・越中の国境の駒帰で敗戦し、やむなく甲斐に落ち延びたのである。
謙信の元老臣ということもあってか信玄は朝秀を譜代の家臣と同等に遇した。
一時山県昌景の同心となった彼は、その後信玄の旗本衆である足軽大将の一人として騎馬30人、足軽75人を任されるに至ったのである。
さらにその後昌景の同心から相備に格上げになり元亀2(1571)年には遠州小山の城代となっている。
天正6(1579)年の御館の乱の際に武田勝頼は景勝と景虎の和睦の調停をするが、その時の使者として朝秀が景勝方に赴いた。
しかし、天目山にて武田氏が滅亡した際には積年の恩に報い、勝頼父子に殉じたのであった。


お船の方(永禄2・1559~寛永14・1637)

与板城主直江景綱の娘にして、直江兼続の妻。

景綱には男子がいなかったことから初めは上野国の総社長尾氏出身の信綱を婿に迎える。

大層聡明な女性として知られ、謙信が後継者を定めぬまま脳溢血で倒れて、人事不省に陥っているときに後継者は景勝との返事を引き出すことにより、景勝を正当な後継者に押し上げたことは有名である。

しかし、お館の乱後の論功行賞のもつれから城内でいさかいがあり、仲裁しようとした信綱は毛利秀広に斬殺されてしまった。名家が絶えるのを惜しんだ景勝の命により樋口兼続を婿に入れた。

年齢はお船の方の方が兼続より年長であることもあり兼続は彼女に頭が上がらなかったという。

結婚以来お船の方は陰に陽に兼続を支え続けた。

兼続の業績は半ば彼女の内助の功あってのものともいえる。

慶長9(1604)年5月に久しく子のなかった景勝に一子定勝が生まれた。

景勝の正室お菊の方は伏見にて47歳で病死しており、定勝の生母四辻の方も産後の経過が思わしくなくまもなく病死した。

このためお船の方が母代わりとして定勝を育てることとなった。定勝の方も彼女を実の母と思い、よくなついたという。

61歳の時夫と死別すると剃髪して貞心尼と号し3000石を給された。

寛永14(1637)年1月81歳にて死去した。

彼らの間には一男二女がいる。

長女は養子大和守勝吉に嫁いだが、慶長10(1605)年8月病死した。

次女は同年1月病死。

嫡男景明は文禄3(1994)年生まれだが生来病弱で元和元(1615)年7月病死。