柿崎景家(?~天正3・1575年)
通称:弥次郎、和泉守
越後国頚城郡柿崎(木崎)城主。猿毛城主。謙信の臣。
柿崎氏は清和源氏新田越後守義宗の後裔といわれているが、大見氏との説もある。
早い時期から上杉・長尾氏に仕え、永禄元(1558)年に春日山城留守番として政務に参加するようになる。
同3(1560)年に謙信が領内の諸役、地子などを5年間免除するといった思い切った政令を発した時は景家は斉藤朝信らとともに奉行としてその施行に携わった。
だが、彼の本領は内政家というよりも武人であろう。
同4(1561)年小田原攻め、同年の川中島(八幡原)の合戦に従軍し活躍、猛将の名をほしいままにする。
このときの合戦では先陣を命じられ妻女山を一気に駆け下ると信玄陣地を目指して攻めかかり緒戦の働きは目覚しかったという。
しかし途中から飯富兵部の反撃を支えきれず色部勝長の救援を仰いだという。
天正元(1573)年先手300騎の大将として越中に出陣した。
この後から景家は史料からその名が見えなくなるが恐らくこの頃没したのであろう。
通説によると信長への内通を疑われ謙信により誅せられたという。
これには異説もあり、嫡男晴家が誅せられたのと混同され、彼自身は病死であったともいう。


柿崎憲家( ?~寛永10・1633年 )
通称:千熊丸、弥次郎、能登守
景家の男とも孫とも言われている。
晴家の誅殺後、改易になった柿崎家残党は猿毛城において御家再興を賭けて景勝方に付き血みどろの同士討ちを繰り広げた。
そうした悲劇の一齣を経て、当主の遺児千熊丸に旧領が与えられて柿崎家再興が成ったのである。
越後時代は柿崎を領しており文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると2861石を知行し、軍役171人半であった。
しかし慶長2(1597)年、伏見舟入普請で故あって改易となり春日山城下を追放となった。
寛永元(1624)年、侍組となり200石賜る。
同10(1633)年9月30日没。


柿崎晴家( ?~? )
通称:平三郎、左衛門大夫
景家の男。謙信の臣。
元亀元(1570)年、北条氏との講和の際に氏康の七男の三郎景虎と交換に上杉方人質となるが、のち帰国する。
天正3(1575)年の「上杉氏軍役帳」にその名が見え、軍役260人を負担。
しかし信長に通じた疑いにより天正5(1578)年謙信に誅せられたとも同6(1579)年の御館の乱の際に討たれたとも言われている


加地春綱( ?~? )
通称:安芸守
為景・謙信の臣。
加地氏は祖先を佐々木盛綱に持っている。
盛綱は源頼朝の挙兵以来戦功があり、特に鳥坂城の城資盛討伐に総指揮を取り、蒲原郡加地荘の地頭職を賜り代々この地を治めてきた。同族に竹俣、新発田氏などがいる。
享禄4(1531)年の上条の乱では為景に味方し永禄7年(1564)年には信濃飯山城を守った。


加地彦次郎( ?~? )
謙信の臣。
永禄12(1569)年の本庄繁長攻め、天正元(1573)年の越中攻めに出陣。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」では軍役158人を負担した。
尚、文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」では662石を知行し、軍役39人半を負担したとあるが、一族のうちの誰であるかは定かではない。


春日元忠( ?~慶長13・1608年)
通称:右衛門
信濃国更科郡春日の出身。武田旧臣。
天正10(1582)年の武田氏滅亡後越後に来て景勝の臣となる。
同12(1584)年信州青柳城代となる。
同19(1591)年、直江兼続と共に庄内一揆の残党を鎮圧する。本庄城将となり本庄氏遺領を支配する。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると元忠は本庄衆として2308石を知行し、軍役は120人半であった。
慶長3(1598)年の景勝の会津移封に従い、高畠城代となり5000石を知行した。
同城には慶長13(1608)年に彼が没するまで在城した。


神余親綱( ?~天正8・1580年)
通称:小次郎
天正5(1577)年の山吉豊守の没後、越後蒲原郡の三条城主となる。
謙信没後の御館の乱では景虎方につき、景勝と抗争した。
同7(1579)年の景虎自刃後も古志郡栃尾の本庄氏らと共に景勝に抵抗したが、同8(1580)年7月、城中の山吉豊守の旧臣の謀反により殺害された。


河田重親( ?~? )
通称:伯耆守
上杉氏の臣。長親の伯父。
謙信より上野沼田城の守備を命じられ関東攻略の一端を担った。
謙信没後の御館の乱の際には景虎を推し景勝と争った。
のち北条氏に属した。


河田長親( ?~天正9・1581年)
通称:豊前守、号禅忠
謙信の臣。父は伊豆守入道。
近江国守山の出身であり、永禄2(1559)年謙信が2度目の上洛をした折に見出され側近として取り立てられた。
彼はその学識の高さや交渉能力などを評価され官僚としてその能力を遺憾なく発揮するが、戦場においてもその働きはめざましいものがあった。
永禄8(1565)年から翌9年にかけては関東出陣、元亀から天正の初年にかけては越中魚津城主として一向一揆と戦い、特に北陸の戦線においては総指揮官のようであった。
天正5(1577)年七尾城開城が為った時その受領使にも任ぜられた。
謙信死後、入道して禅忠と名乗る。信長から近江本国の所領を条件に誘われたがそれを断り、景勝の元で松倉城主として織田軍と戦った。
しかし天正9(1581)年4月に病没した。享年39歳であったという。


河田吉久( ?~? )
通称:対馬守
謙信の旗本。
元亀3(1572)年の越中出陣の際には春日山城の、天正4(1576)年の能登遠征の際には石動城の留守番。
天正3(1575)年の「上杉氏軍役帳」には軍役107人を負担したとある。
謙信没後の御館の乱では景虎方について景勝と争った。