北条景広( ?~天正7・1579年 )
通称:丹後守
高広の男。越後国刈羽郡佐橋荘北条の領主。
北条氏は鎌倉初期に幕府創設で功のあった大江広元を祖とし、その4男季光が相模国毛利庄に住し毛利氏を名乗った。
季光の3男は越後国佐橋庄地頭職に補任され、南条に館を構えた。
のち北条城を要害とし北条氏を名乗った。
余談であるが、安芸の戦国大名の毛利元就は同族であり、安芸国高田郡吉田にも所領を持っていたためそちらを本拠とした家の出である。

景広は父と共に上野国厩橋城にて関東計略に尽力した。
謙信没後の御館の乱の際には景虎方につき、景勝と争うが天正7(1579)年2月、景勝方の荻田孫十郎に殺された。


北条高定( ?~天正6・1578年 )
通称:下総守
越後国刈羽郡佐橋荘北条の領主。謙信の旗本。
元亀3(1572)年の越中出陣の際は春日山城留守将。
天正3(1575)年の「上杉氏軍役帳」には軍役105人を負担したとある。
謙信没後の御館の乱では景勝方に属したが同6(1578)年5月に誤解され成敗された。


北条高広( ?~? )
通称:丹後守、安芸守、芳林
天文23(1554)年、信玄の誘いを受けて謙信に背いたがただちに復帰し、奉行職を勤めた。
永禄5(1561)年から嫡子景広と共に上野国厩橋城にあって関東経略に尽くした。
同10(1567)年、小田原北条氏に誘われて再度背いたが翌年北条氏政の仲介により帰参した。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景虎方に着き、嫡男と共に景勝と抗争した。
一時武田勝頼の元に走るが、勝頼のとりなしにより景勝に属した。


清野長範( ?~寛永11・1634年)
通称:周防守、助次郎
長範は会津葦名義広の家臣、平田尾張守常広の次男で初め平田助次郎を称した。
天正17(1589)年、伊達政宗に葦名氏は滅ぼされ、浪人となるが、越後の木戸元斎という者を頼って移住する。
のち景勝に拝謁し、近侍となる。
一方彼の養父となる清野清入軒康祐は信州の清野城主であり武田氏に仕えていたが、武田氏滅亡後の天正10(1582)年6月に景勝を頼り、家臣となる。
康祐は文禄元(1592)年5月28日に嗣子がないまま没したので、長範が家督を相続することになった。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、4177石を知行し、軍役250人半であった。
慶長3(1598)年の景勝の会津移封に従い、伊南城1万3200石の城代となった。
同6年の米沢転封後は彼は米沢城下に移り、3333石を知行した。寛永10(1633)年5月17日奉行職となる。
翌11年(1634)年9月4日没した。


栗田国時( ?~? )
通称:刑部少輔
栗田氏は信濃国善光寺の別当であったが、天文22(1553)年、信玄の信濃侵攻により、所を追われて謙信を頼り越後にやってきた。
慶長3(1598)年景勝の会津移封に従い、大森城代として8500石を知行した。


黒金尚信( ?~? )
通称:安芸守
天正17(1589)年6月16日、景勝は本間高茂の羽茂城を攻め落として佐渡を平定し、同城に尚信を守備させた。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、尚信は1201石を知行していた。
景勝の会津転封後もそのまま佐渡の羽茂城代を勤め、知行高は2500石に加増された。


黒川為実( ?~元和5・1619年)
通称:左馬介、豊前守
鎌倉初期の和田義盛の弟義茂は、木曽義仲追討の恩賞として越後国奥山庄の地頭職を賜った。
建治3(1277)年、時茂は3人の孫茂連・茂長・義基に所領を分与し、嫡孫茂連の子孫は中條氏を、茂長の子孫は黒川氏を、義基の子孫は関沢氏を名乗った。
そして黒川氏は黒川城を本拠とした。

為実は慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、3800石を知行した。
同6(1601)年の米沢転封以降は1292石となり、七手隊となった。
大坂の陣に参陣する。
元和5(1619)年1月20日没。


黒川清実( ?~? )
通称:四郎次郎
蒲原郡奥山庄北条の領主。
享禄4(1531)年の上条の乱では為景についたが、天文4(1535)年の乱の時は上条方に味方した。
同23(1554)年には謙信より彼の所領に郡司不入の特権を認められた。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると179人の軍役を負担した。
同6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景虎方となった。


黒田秀忠( ?~天文15・1546? )
黒田氏は中越地方の豪族で蒲原郡黒滝城を本拠とした。越後守護上杉氏の老臣。
はじめ為景の小姓として寵愛され、その後為景のもとで大いに勢力を伸ばすが、天文14(1545)年に晴景の兄弟を殺害するという事件を起こし上越地方から追放される。
しかし景虎はこれを許しては守護代家の威信に関わるとして討伐を決意、秀忠は10月長尾景虎の命を受けた村山与七郎の攻撃を受けた。
それを見た秀忠は一度は降伏、恭順の意を表し、助命されたが、翌年の2月には領内に戻り一族とともに再び反旗を翻し、秀忠は一族とともに討ち果たされた。



下条忠親( ?~元和3・1617年 )
通称:駿河守、采女正
河田長親の次男であり、蒲原郡白河庄下条を領する。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると52人の軍役を負担した。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」では、1734石を知行し、軍役は104人半であった。
慶長3(1598)年景勝の会津移封に従い、二本松城4700石の城代となった。
同6(1601)年以降は1333石となる。
同13(1608)年2月23日鮎貝城代となり、同19年の大坂冬の陣に参陣した。
元和3(1617)年9月25日没。


小島弥太郎( ?~? )
謙信の近臣。
初め為景の馬廻りをつとめて各地を転戦し、謙信の近臣となってからも前にもまして勇猛果敢さを発揮し、近隣の諸豪族からは鬼小島と言われて恐れられたという。