■斉藤朝信( ?~? ) 通称:下野守 刈羽郡赤田保赤田城主。 謙信の配下で永禄4(1561)年の越中攻め、同7(1564)年の下野佐野城攻め、天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると軍役213人を負担した。 天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景勝方に属した。 同9(1581)年越中魚津城在番、同10(1582)年信州海津城を守った。 天正末年の没と云われる。 |
■山本寺景長( ?~天正10・1582年) 別名:孝長とも 越後不動山城主。 山本寺家は越後守護上杉房朝の弟朝定を祖とする。 天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱で兄定長と袂を分かって景勝に与し、兄の後を受けて不動山城主となった。 その後北陸攻めにおいて越中魚津城の城将の一人として参陣していたが、天正10(1582)年6月3日、織田軍の猛攻を受けて落城、彼も他の城将らとともに玉砕した。 |
■山本寺定長( ?~? ) 越後上杉氏の一門で不動山城主。景長の兄。 謙信の養子景虎の後見人でもある。謙信に従って各地で転戦し軍功も多かった。特に弘治元(1555)年の川中島の合戦では武田の本陣を衝いている。 永禄2(1559)年10月28日、謙信の上洛を祝し太刀を贈った(直太刀之衆)。 天正3年の軍役帳では一門衆として名を連ね、軍役71人を負担した。 同(1578)年のお館の乱では景虎方について景勝と戦ったが敗れて逃亡したという。 |
■志駄義秀( ?~寛永9・1632年) 通称:修理亮 越後夏戸城主。 志駄氏は源為義の子義広を祖とし、常陸国志駄郡に住しその土地の名を称す。 南北朝時代の初期に上杉氏に伴い越後入りした。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると義秀は直江兼続家臣団の与板衆として1563石を知行し、軍役93人7分であった。 文禄4(1595)年1月、直江兼続と庄内金山を支配する。 慶長3(1598)年景勝の会津転封に従い、出羽酒田城5000石の城代となる。 慶長6(1601)年荒砥城代となり1000石を知行する。 元和8(1622)年米沢城にて奉行職となる。 寛永9(1632)年8月16日没。 |
■新発田重家(天文16・1547? ~天正15・1587年) 通称:源太、治長、因幡守 北蒲原郡加地庄新発田五十公野城主。 佐々木加地氏の一族であり加地氏、竹俣氏とは同族である。 当初五十公野城主五十公野氏を継いだが、天正8(1580)年兄長敦が病死すると生家を継いだ 天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱で景勝方として戦い大いに戦功があり大いに称賛されたが、恩賞がないのに憤慨した彼は織田信長に通じ、景勝に反旗を翻した。 当初信長の支援を受け新潟、沼垂を占領し、戦線を拡大したが、天正10(1582)年本能寺の変により信長が倒れると重家は苦境に陥った。 その後なおも抵抗を続けるが、秀吉・家康の画策もあり、天正15(1587)年10月28日居城の新発田城を景勝に攻められて落城、自害した。 |
■新発田綱貞( ?~? ) 通称:伯耆守 五十公野城主。 享禄4(1531)年上条定憲が守護上杉定実を擁立して長尾為景と戦った上条の乱では当初為景方に着くが、後に上条方に寝返り為景と戦った。 |
■新発田長敦( ?~天正8・1580年) 通称:源次郎、尾張守 綱貞の嫡男。 天文7(1538)年、上条の乱で上条方についた国人らの長尾晴景への帰参に尽力。 天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると軍役194人を負担した。 謙信政権の中枢に参画し、天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱でも景勝方に着き、その地位を保全したが、同8(1580)年病没した。 |
■島津忠直( ?~慶長9・1604年) 通称:淡路守、月下斎 信州長沼城主。 薩摩島津氏の遠い縁戚といわれている。 天文22(1553)年、信玄により所領を追われ、越後に謙信を頼る。 天正10(1582)年本能寺の変後は景勝が信州川中島四郡を支配し、忠直が旧領の長沼城に入り慶長3(1598)年まで在城した。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると6190石を知行し、軍役は371人であった。 慶長3(1598)年景勝の会津転封に従い岩代長沼城7000石の城代となった。 慶長9(1604)年8月1日没。 |
■城景茂 |
■上条定憲( ?~? ) 通称:七郎、兵庫頭、播磨守 上条氏は越後守護上杉房方の子清方を祖とし、上条城を本拠とした。 清方の孫が定実であり、彼が守護を継いだため、弟の定明が上条氏を継いだが子がなく定憲を養子に迎えた。 謙信の生まれた年の享禄3(1530)年11月に反為景の兵を起こし越後中を混乱に陥れた。 この時は為景は急いで揚北衆を味方につけて上条城を取り囲んだので身動きが取れず一先ず降伏した。 しかし天文2(1533)年5月定憲は再度挙兵した。 この時は揚北衆だけでなく上田長尾氏の房長までが定憲に味方し、為景は苦境に陥った。 それから数年の間戦乱は続いた。 そんな中為景は病没したが、幼い謙信は甲冑をつけてその葬儀に参列したと云われている。 |
■上条政繁(?~寛永20・1643年) 能登国七尾城主畠山義統の次男で当初弥五郎、義春と称した。 越後には人質として送られてきたが、謙信は彼を養子として遇する。景勝の妹を娶り上杉一門の上条氏を継いで上条政繁と名乗る。軍役帳にも一門衆として名を連ねており家中においては独特の立場を保っていた 。 お館の乱の際には景勝方につき、戦後海津城主として北信濃を統治するなど景勝を補佐する立場にあった。だが、信州統治を巡って景勝と対立し、天正14(1586)年上杉家を去り、上方に出奔した。 秀吉に馬廻衆として当初500石で仕え順次加増されて1500石を食んだ。ついで大坂の秀頼に仕えるが、慶長19(1614)年片桐且元とともに大坂城を去る。そして江戸に赴き高家衆として家康に仕える。のち畠山に復姓し、江戸で死去。 高家衆に畠山、上杉の名が見えるのは彼の子孫である。 |
■水原親憲(天文15・1546?~元和2・1616) 常陸介。大関弥七。杉原ともいう。 越後北蒲原郡水原城城主 伊豆大見氏流。実父は大関阿波守親信。 大見氏は源頼朝の挙兵に参陣して功績があり、白河庄地頭職を拝領し、同族に安田氏がいる。 謙信・景勝に仕え軍功があり、水原家を継いだ。 上杉家中屈指の勇将であったという。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると親憲は知行高3414石、軍役149人であった。 慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、猪苗代城5500石の城代となった。 関ヶ原合戦後は米沢に移る。 大坂夏の陣で武功があり将軍家より感状を賜るも、その宛て名の水原を杉原と書き間違いがあった(どちらも「すいばら」と読む)。 しかし将軍家に異を唱えるわけにもゆかず、これを因に姓を「杉原」と改めたという。 元和2(1616)年5月13日に71歳で没。 |
■菅名綱輔( ?~天正10・1582) 源三。但馬守。 菅名氏は中蒲原郡菅名庄の領主である。 天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると菅名与三は槍47丁、手明10人、鉄砲6丁、大小旗6本、馬上9騎の計78人の軍役を負担した。 天正5年の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にはその名が見える。 天正6(1578)年の御館の乱では景勝方に属し、同8(1580)年4月に本庄秀綱の栃尾城を攻めた。 ついで加茂山に布陣し三郎景虎方の神余親綱を牽制した。 同6月には神余は綱輔に介して降伏を申し出るが、景勝には許されなかった。 天正10(1582)年2月の越中での戦いにおいては戦況を直江兼続に報ず。 同年4月には越中から召還され、新発田重家の討伐に向かわせられるが、同年の10月の放生橋の戦いにて戦死した。 |
■須賀盛能( ?~? ) 修理亮。 天正17(1589)年6月に景勝は佐渡に上陸し、平定するが、この時沢根城主に任ぜられた。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると知行高1173石4斗4升7合3勺、軍役67人で同心登坂新兵衛がおり、こちらは知行高244石6斗2升、軍役16人半であった。 佐渡は慶長3(1598)年の景勝の会津転封の後も引き続き上杉家領となり、盛能が引き続き沢根城主を務めた。 |
■須田長義(? ~ ? ) 大炊助。 上杉景勝の臣。満親の男。 越後国須田城を本拠とするが、慶長3(1598)年景勝の会津転封に伴い移住し、梁川城代となる。 同5年の関が原の合戦では福島口で伊達軍と戦いこれを破ったという。 |
■須田信正( ?~天正13・1585) 信濃国高井郡の領主で信玄の北信濃侵入に際し、武田に属すが、天正10(1582)年以降は上杉景勝の支配の元でこれに属し、本領を安堵される。 同12年景勝が小笠原貞慶から千見城を奪還するとその在番を命ぜられる。 しかし翌年城は再び小笠原の手に落ち、其の時の景勝の出陣要求に応じなかったために誅殺された。 |
■須田満親( ?~? ) 相模守。 天正12(1584)年信濃国海津城主となり、翌年眞田昌幸からの人質(幸村)を預かって景勝の援助を斡旋した。 同年の徳川家康の北信濃攻撃の際には四郡の総指揮権を与えられて応戦した。 慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、子の満統は23300石を与えられた。 |