■高梨政盛( ?~永正10・1513) 信濃国中野小館に根拠を置いた土豪。永正6(1509)年に泉・小笠原・市河氏とともに越後の長尾氏と結び越後国に侵攻し翌年6月長森原で上杉顕定を討ち取った。 |
■高梨政頼( ?~? ) 信濃中野小館に根拠を置く土豪。 弘治年間(1555~58年)頃信玄に追われて飯山城に退き謙信の庇護を受けた。 永禄4(1561)年3月の関東出陣の際には春日山城留守居役を勤め、同年9月の川中島(八幡原)の合戦の際には先陣を勤めた。 |
■高梨頼親( ?~? ) 弥五郎。 北信濃の土豪で上杉景勝の臣。政頼の男。 天正10(1582)年8月景勝から川中島安源寺周辺2000貫の地を安堵され、安源寺城に入ったがやがて、故地の中野小館に入った。 慶長3(1598)年の景勝の転封に従いこの地を去った。 |
■竹俣利綱( ?~慶長18・1613) 左京亮。初め長尾景人を称す。 魚津城の玉砕で竹俣慶綱が嗣子がないまま自刃し家名断絶のところ、文禄2(1593)年に長尾家から養子に入って家名を継ぎ、竹俣城主となる。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、利綱は知行高921石7斗、軍役55人小半役であった。 慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、守山城2100石の城代となった。 慶長6年以降は米澤に移る。 慶長18(1613)年11月25日没。 |
■竹俣慶綱(大永4・1524~天正10・1582) 右兵衛尉。三河守。 佐々木加地氏の一族。為綱の男。 竹俣氏の祖先佐々木盛綱は源頼朝の挙兵以来、戦功があり、特に鳥坂城(北蒲原郡中條町羽黒)の城資盛の討伐に総指揮を取り加地庄の地頭職を賜った。 以後、子孫は竹俣氏、加地氏、新発田氏に別れ、竹俣氏は揚北衆の一人として蒲原郡加地荘竹俣を領し竹俣城を本拠とした。 慶綱は謙信・景勝に仕える。 永禄2(1559)年10月28日、謙信の上洛を祝して太刀を献上した。 天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると慶綱は槍67丁、手明10人、鉄砲5丁、大小旗6本、馬上10騎の98人の軍役を負担した。 天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも其の名を連ねている。 天正6(1578)年から8(1580)年まで奉行、9(1581)年からは越中松倉城在番を務める。 同10(1582)年越中魚津城の戦いでは織田軍の包囲を受け、他の城将らとともに玉砕し自刃した。 |
■千坂景親( ?~慶長11・1606) 対馬守。鉢盛城主。 千坂氏は越後守護上杉氏の直臣で奉行を務めたこともある家柄であった。 景親は永禄2(1559)年10月28日、謙信の上洛を祝して太刀を献上した。 天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると景親は槍36丁、手明10人、鉄砲2丁、大小旗4本、馬上6騎の58人の軍役を負担した。 天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名を連ねている。 文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると景親は知行高2176石2斗9升8合5勺で軍役130人半であった。 文禄4年伏見普請総奉行。 慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、大沼郡のうち5500石を知行する。 慶長8年江戸家老を務める。 慶長11(1606)年4月24日没。 |
■長景連( ?~天正10・1582) 与一。 上杉景勝の臣。 天正4(1576)年謙信の命により能登国正院川尻城を守る。 しかし同7(1579)年、織田方と結んだ温井・三宅氏らの攻撃を受け撤退した。 同10(1582)年、兵船を率いて奥能登を攻略し棚木城に籠ったが織田方についた同族の長連龍の攻撃を受け、討死した。 |