直江景綱( ?~天正5・1577年)

神五郎。実綱。与兵衛尉。大和守。

越後の国人で大和守親綱の男。三島郡与板城主。
直江家は藤原鎌足の孫・麻呂(京家)の末裔で越後国直江荘を賜ってその地名を取って姓としたという。
初め与兵衛尉実綱と称したが、永禄5(1562)年頃謙信(景虎)の一字を与えられ、大和守景綱と改めた。

年齢は謙信よりも20余歳年長で、謙信の父為景の頃からの家臣であり、為景没後は跡を継いだ兄晴景に仕えた。
謙信が「譜代之者共」と呼んだ譜代家臣団の第一人者と謂われる所以である。

しかし、晴景に対して越後の諸豪族は信服せず、やがて弟謙信(景虎)を擁立する動きが表面化すると、景綱も率先して謙信擁立派に回り、晴景の隠居及び謙信の家徳相続を実現させた。

以後、彼は初期には大熊朝秀、本庄実乃らとともに、後には本庄実乃、河田長親らとともに謙信の側近にて活躍し、天文末年から内政・外交の中枢にあって重きを成した。
永禄2(1559)年謙信が5000余の兵を率いて上洛した折には外交使節として先遣された神余親綱を助け、朝廷・室町幕府の間に周旋した。
同年10月28日、その祝賀として謙信に太刀を献上した。
永禄3(1560)年春日山城の留守居を総括(検見役)。
同年、前関白近衛前嗣の越後来訪の際には接待役を務めた。
また、永禄12(1569)年にそれまで険悪な仲だった小田原北条氏との間に「越相同盟」が締結された。
甲斐の武田氏を牽制するためのものであるが、この時に小田原の使節団と折衝したのも景綱であった。

さて、彼は軍事的な面でもめざましい働きをしている。
謙信の遠征においては春日山城の留守居役を総括したり、上杉軍の動員の差配をしたり、時には増援軍を率いて関東に馳せ参じたりもしている。
第4回川中島の合戦に於いては当初2000の小荷駄隊を率いて上杉軍の戦闘を側面から支えたが、信玄の嫡男・義信の一隊に攻めかかりこれを敗走させたりもしている。

天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると槍200丁、手明30人、鉄砲20丁、大小旗20本、馬上35騎の305人の軍役を負担した。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名を連ねている。
能登遠征では石動城を守ったが天正5(1577)年4月5日70余歳で没した。

だが、彼には男子が居らず、総社長尾氏から信綱を養子として迎えて娘お船に娶わせて後継とした。
その信綱も春日山城中の恩賞争いに巻き込まれて落命してしまった。
その名跡が絶えるのを惜しんだ景勝は側近樋口与六にその跡を継ぐことを命じた。
これが直江兼続である。



直江信綱( ?~天正9・1581年)

与兵衛。上野国総社の長尾平太景貞の男。

嫡男のない景綱の後継として直江氏を継ぎ、娘お船を娶る。
馬廻り大将。景勝の奉行職。

天正9(1581)年9月1日、春日山城において、論功行賞のもつれから毛利秀広が彼とともに談じていた儒者・山崎秀仙に斬りかかった。
信綱はその仲裁に当たるも彼もまた斬られ落命してしまった。



長尾景直( ?~? )

椎名小四郎。
越後の国人。謙信の旗本。
元亀~天正年間(1570~1591)は越中新川郡小出城に在番。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると景直は槍50丁、手明15人、鉄砲3丁、大小旗3本、馬上10騎の81人の軍役を負担した。
謙信没後の御館の乱では一時景虎方についたため、乱後景勝より本領を削られた。



長尾政景(?~永禄7・1564年)

坂戸城を根拠に魚沼郡上田庄を領有した謙信時代の上田長尾氏当主であり、上杉景勝の実父でもある。
上田庄はもともとは上杉氏が越後に持っていた所領であり、上田長尾氏はその代官として管理を任されていたのである。そのため守護代長尾氏とは一線を画した存在であった。加えて系図の上では越後長尾氏の宗家だということもあって守護代家には何かと反抗的だったようだ。
政景の父房長は天文2(1533)年の上条の乱で長尾為景を除こうとする守護側についたのであったが、為景の引退、死後跡を継いだ晴景と和睦し、嫡男の政景は晴景の妹仙桃院を娶った。このことは一時的にではあるが上田長尾氏に繁栄をもたらしたのである。
しかし謙信の登場、活躍により晴景の仲が険悪になると政景は晴景を擁して謙信追討の兵を挙げた。そして北越軍記の記す米山合戦を繰り広げることとなるのである。
やがて上杉定実の仲介により両者が和睦すると政景は上田に篭ったまま出仕しなくなった。これに逆意ありとして謙信に誅されそうになるが、老臣たちの諌めにより許されたのであった。
以後の政景は謙信の補佐役として「謙信次将」といわれるほど重く用いられ、一時謙信が国政を放棄し出奔した際にはその説得にもあたってもいる。
だが永禄7(1564)年上田庄の野尻池で宇佐美定満と舟遊びで酔って水泳中に2人とも溺死した。後年いろいろな憶測がなされるが謎である。
また、一緒に溺死したのは宇佐美ではなく別な人物との説もある。




中條景泰(永禄元・1558~天正10・1582年)

与次。越前守。
越後北蒲原郡奥山荘鳥坂山城主。吉江景資の男。

天正2(1574)年藤資の没後、謙信の命により藤資の娘を娶って中条家を継ぐ。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると槍80丁、手明20人、鉄砲10丁、大小旗15本、馬上15騎の140人の軍役を負担した。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名を連ねている。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景勝方に属したが、景虎方の黒川清実に居城の鳥坂城を奪われる。
天正7(1579)年から越前守を名乗る。
天正9(1581)年から越中魚津城在番となる。
翌年6月3日、柴田勝家率いる織田軍に魚津城を包囲され、玉砕した。
享年25歳。




中條玄蕃允( ?~? )

謙信の部将。
天文20(1551)年2月、越後国上野城に長尾政景の兵を迎え撃ち、謙信の感状を得、本領を安堵された。



中條藤資( ?~? )

弾正左衛門尉。越前守。
弥三郎定資の男。越後国北蒲原郡奥山荘鳥坂山城主。

中条氏は三浦和田氏の流れを汲む揚北衆の豪族であった。
永正4(1507)年から長尾為景に味方し本庄房長、色部昌長らと争う。
同10~11(1513~1514)の永正の乱でも為景の勝利に貢献したが、享禄・天文の乱では守護家上杉一族の上条定憲方に付き為景と対立した。
謙信の元では永禄4(1561)年の川中島の合戦にて功あり、感状を受けた。



中條三盛(天正6・1578~慶長12・1607年)

一黒丸。与次
中条景泰の長子。

天正10(1582)年12月2日、景勝より父の遺領を安堵される。
天正12(1584)年与次と改名。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると三盛は知行高1865石9斗6合5勺、軍役116人であった。
慶長2(1597)年三盛と名乗る。

慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、鮎貝城1万石の城代となる。
関ヶ原の合戦後も引き続き鮎貝城代として3333石賜る。

慶長12年5月22日鮎貝城において、30歳で没す。


新津大膳亮( ?~? )
新津館主。
新津氏は永正3(1506)年新津越前守が長尾為景に服属したのを初めとして謙信・景勝に仕えている。
大膳亮は永禄2(1559)年謙信の上洛を祝して太刀を献上、天正元(1573)年には越中に出陣。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」にも名が見え軍役91人を負担した。


新津丹波守勝資( ?~? )
新津館主。
景勝に仕え文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」には911石を知行し軍役54人半を負担したとある。
その後、慶長3(1598)年の景勝の会津移封に従ったということであるが大膳亮との関係は不明である。