原八右衛門( ?~? )

もと景勝の家臣。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では東軍についた最上氏と戦い、最上方の谷地城を攻略したが、敗戦後の退却が遅れ、下吉忠以下2500人がそこに籠城し抗戦した。
やがて、降伏して八右衛門は最上家臣となり、2000石を与えられたが、最上義光の嫡男・義康を讒言したことに連座し、断罪されたという。



樋口兼豊( ?~慶長7・1602)

惣右衛門尉。伊予守。
直江兼続の実父。与三右衛門兼村の嫡男。

樋口氏は木曽義仲の四天王の一人・樋口次郎兼光の末裔と伝わっている。
兼光の兄弟に今井四郎兼平、巴御前がいる。
兼豊の祖父・総右衛門兼定の時に越後に来住し、魚沼郡上田庄坂戸城主長尾氏に仕えたという。

妻は信州高井郡の豪族でのちの飯山城主となる泉重蔵の娘とも直江景綱の妹とも言われている。
そして彼自身は当初は薪炭奉行といった身分の低い武士だったと云われているが、妻女と云われていた女性がいずれも身分の高い家柄であることから実は彼自身もまた最初から重臣であったのではないかという説もある。

いずれにしても天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱で戦功があり、乱後の天正12(1584)年11月24日越後国東頚城郡の直峰城主となった。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、彼の知行高は809石1斗6升4合であった。

同心衆として下平彦兵衛、登坂与総右衛門、北村監物、登坂弥太郎、滝沢孫兵衛、岡村源助、上村三郎右衛門、星次郎左衛門、香坂三郎右衛門、山田杢之助、吉田作右衛門、井田玄蕃、浅間縫殿、小市源左衛門の14人を抱えている。

天正16(1588)年4月16日、伊予守となる。
慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、3000石を与えられるが、関ヶ原の合戦後1000石に減封される。
慶長7(1602)年9月12日没。

兼豊には3男3女が居り、長男・兼続は直江家、次男・実頼は小国家を継ぎ、三男秀兼が樋口家を継ぎ、秀兼の子孫が米澤に現存している。



■平野甚右衛門





平林正恒(天文19・1550~元和8・1622年)
通称:蔵人佐
信濃国上尾城主。
肥後守正家の嫡男。
武田信玄に仕えていた父が北条氏との戦いで討死すると家督を継ぎ、同じく信玄に従った。
天正4(1576)年勝頼の命により牧之島城に入り城主馬場信春を補佐した。
天正10(1582)年の武田氏滅亡の後は景勝に属し250石を賜る。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」では272石を知行したとある。
慶長3(1598)年の上杉家の会津移封の際にも従い、白河城5360石の城代となる。
慶長6年に景勝が米沢に転封になると福島奉行となり2000石を賜る。
元和8年2月18日没。


藤田信吉(? ~元和2・1616年)

弥六郎。重信。能登守。源心。
藤田康邦(重利)の次男。

藤田氏は武蔵国猪俣党の流れを汲む豪族で代々関東管領上杉氏の重臣であったが、天文16(1547)年康邦の代に北条氏に屈しその臣となった。
この時に元の重利という名を改めて康邦と名乗った。
そして北条氏康の三男・氏邦が藤田氏を継ぐと、居城の天神山城を出て用土城に移り、自らは用土氏を称した。

信吉も父や兄・重連と行動をともにし用土氏を名乗ることになるが、重連が氏邦に毒殺されるという事件が起きると、身の危険を感じた信吉は出奔し、武田氏の下に身を寄せ、この時藤田に復姓した。

武田家中では上野国沼田城代となる。

天正10(1582)年の武田氏の滅亡後、一時織田方の滝川一益に仕えたが、本能寺の変の報せを耳にした一益が関東を捨てて尾張に引き上げたので、やむなく上杉景勝を頼り彼に仕えることになった。

天正12(1584)年佐渡遠征に参加、これを制圧した。
同15(1587)年、新発田重家討伐の戦いにおいては新発田方の五十公野氏の立てこもる五十公野城を包囲し、落城させた。
同18(1590)年、秀吉の小田原征伐が始まると、上杉・前田の両軍は北陸・中仙道を通って大道寺政繁の守る上野国松井田城を落とし、氏邦の守る鉢形城を落とすが、この時の案内役は信吉であった。
この時上杉軍の一員として鉢形城攻めに参加したことで、何十年ぶりかに故郷の地を踏み、父や兄の無念を晴らすことが出来たのであった。

文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると信吉は知行高2808石3斗9升9合7勺、軍役160人半であった
慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、越後国東蒲原郡津川城1万1000石の城代となる。

しかし、関ヶ原の合戦の直前、彼は一族郎党を引き連れ、上杉家を出奔し、江戸の徳川秀忠の下に走り、のちに上洛する。
この時、信吉は家康に対し、景勝が挙兵の準備を進めていると告げ口をしたのであり、これが徳川による上杉景勝討伐の軍を起すもととなったのである。
原因は対徳川の調停工作の失敗で上杉家中にいられなくなったことや、家康の信吉引き抜き工作があったことなどが云われている。

徳川家の下では下野国内で1万5000石を与えられたが、元和元(1615)年大坂夏の陣に榊原康勝の軍の指揮の失敗の責任を取らされて改易された。
翌2年7月14日信濃国奈良井で没。自害ともいう。



堀江宗親( ?~? )

越後国鮫ヶ尾城主。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では初め景虎方に与力したが、御館が陥落し、小田原に逃げる途中の景虎を城に迎え入れたが、その後景勝方に寝返り、景虎を自害に追い込んだ。



本庄繁長(天文8・1539~慶長18・1613年)
通称:弥次郎、越前守、大和守、雨順斎全長
房長の男。岩船郡本庄城城主。
少年時代自分の城で暮らすことが出来ず、譜代の家人の元で育つ。彼が母の胎内にある時に房長の弟小川長資に城を乗っ取られたからである。
天文20(1551)年一族の後援を得て長資を討ち、ようやく城に戻ることが出来た。
永禄元(1558)年謙信に謁して帰属を誓い、越中、信濃、関東へと転戦した。永禄4(1561)年の川中島(八幡原)の合戦では繁長は自ら太刀を振るって敵と渡り合ったという。
そして平時は下野国佐野城代や春日山城での奉行人的な職務も勤めた。
しかし永禄11(1568)年3月、彼は謙信に反旗を翻した。春日山に出仕していた繁長は謙信が越中に出兵している隙をついて、奉行人の長尾藤景を討ち、勝手に本庄城に帰り立て籠もったのである。
理由は藤景との不仲とか関東出兵の恩賞の不満等様々に言われているが、繁長は外様衆では中條藤資についで優遇されており、恐らく信玄の越後包囲策に乗ったものと思われる。
この時の繁長の版図は出羽庄内にまで及び独立大名として自立してもおかしくない状況にあった。この時謙信は武田氏の他に越中の一向一揆にも手を焼いており、そのほかに葦名氏や同族の揚北衆である色部顕長や鮎川盛長の応援も見込んだに違いない。
しかし、頼みとする葦名氏だけでなく、色部・鮎川・中條氏にまで合力を拒絶され、孤立無援に陥った。しかし謙信は越後周辺の状況や城の堅固なことから本庄城を一気に攻め落とすことは出来なかった。
しかし翌永禄12(1569)年2月、葦名盛氏と伊達輝宗が繁長の赦免を条件に和睦を申し入れてきた。
この時頑強な抵抗に業を煮やしていた謙信はそれに応じた。
そして繁長は謙信に一子千代丸(顕長)を人質に差し出し降伏した。
繁長の反乱は1年にわたる長きものであったが、この謙信治世最後の反乱を機にその領国支配は次第に強固となっていき、天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」の成立により一門・国衆・譜代の別による越後統一が完成したのである。
この後繁長は謙信に従いついで後継者となった景勝にも仕えるが、庄内で起こった一揆の責任を秀吉に追及され、改易され浪人となる。
だが慶長3(1598)年上杉家の会津移封の際に帰参。関が原合戦後の米沢転封の後には陸奥国信夫郡福島城主となる。
慶長18(1613)年12月没。


本庄実乃( ?~? )

新左衛門尉。宗緩。
越後の国人で古志郡栃尾城主。
天文12(1543)年の謙信の栃尾城入城以来の側近であり、謙信政権の初期には大熊朝秀や直江景綱らとともに政権の中心で重きをなしていた。
同18(1549)年上野から上杉憲政が越後に救援を求めてきた時は仲介の労をとった。

しかし天文23(1554)年頃から訴訟問題をめぐって大熊と対立し、それが謙信の出奔事件へと発展する。
事件の解決後、大熊は排除され、その後は直江景綱や河田長親らと政権を担うこととなった。




本庄秀綱( ?~? )

清七郎。
越後の国人。実父は美作守慶秀。
本庄実乃のあとを受け、栃尾城主となる。

永禄2(1559)年謙信の上洛を祝して太刀を献上。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると、槍150丁、手明30人、鉄砲15丁、大小旗15本、馬上30騎の240人の軍役を負担した。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名が見える。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景虎方に属し、景虎の自刃後も景勝に対し抗戦した。
そして天正8(1580)年4月22日景勝軍の攻撃を受けて栃尾城は落城した。
秀綱は会津に逃れ、ここに栃尾本庄氏は滅亡したのである。




■本多政重