前田慶次郎( ?~? )

宗兵衛。利益。利太。利治。穀蔵院忽之斎。

滝川益氏、あるいは一益の一子とも言われ、前田利家の兄・蔵人利久の養子となる。
初め信長、利家に仕えたが、のち出奔し、景勝のもとで客将として仕える。
関ヶ原の戦いの後も上杉家に留まり米澤郊外の堂森に隠棲し、余生を送る。

彼はかぶき者としてつとに有名であるが、学問や諸芸能に通じた風流人としても著名である。





松本景繁( ?~? )

石見守。
越後の国人。越後国三島郡小木城主。

謙信の旗本。
永禄8(1565)年以降、上野国沼田城にあって関東経略に活躍。
同12(1569)年の北条氏との講和の際に上杉方の使者を務めた。



松本助義( ?~慶長5・1600年)

大炊助。伊賀守。

信濃国の出身でのちに越後国小木城主となる。

文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、知行高1580石、軍役が114人半であった。

慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、小国城代、ついで大浦城代となり3200石を賜った。
しかし、庄内に一揆が起こり大浦城で嫡男・猪兵衛とともに討死した。




■三瀦氏






村上国清( ?~? )

源吾。山浦景国。
義清の長男。海津城代。

父とともに上杉家に寄寓し、客将として謙信に仕える。

国清は上杉家一門の山浦家の名跡を継ぎ、山浦殿と呼ばれ、上杉一門衆として遇された。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると、槍170丁、手明20人、鉄砲25丁、大小旗15本、馬上20騎の250人の軍役を負担し、これは景勝に次ぐ第二位であった。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名を連ねている。

同年謙信の能登遠征に従い、末森城を守る。

謙信没後の天正7(1579)年、国清は景勝の一字を賜り、「景国」と改名した。

景勝のもとでは侍大将となり海津城代となるが、その後罷免され蟄居する。

天正18(1590)年の小田原攻めに際しては上杉軍の先手として参陣した。

文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると、知行高は2277石6斗3升1合、軍役は173人であった。

慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、塩之松の四本松城6500石の城代となった。


村上義清(文亀3・1503~天正元・1573)

左衛門尉。周防守。
信濃国坂城城主。

北信濃を本拠に南の小笠原氏と信濃を二分する勢力を誇っていた武将であり、信玄を二度も打ち負かしたほどの剛の者でもあった。
しかし武運つたなくその領地を追われ、越後の謙信公を頼って落ち延び、北信濃の諸領主の本領奪還のために出陣を要請したのである。

いわば彼は川中島の合戦の発端となった人物である。

以後彼は上杉軍の配下として数ある戦いに従軍するが、本領への復帰は叶わず、越後根地城にて客死する。

尚、信濃の本領への復帰は彼の息子・国清の代になって実現した。


■村田秀頼