安田顕元(天文7・1538~天正8・1580年)

惣八郎。掃部助。
越後国刈羽郡鵜川荘安田城城主。
越中守景元の男。

毛利一族で北条支族。
永禄2(1559)年謙信の上洛を祝して太刀を献上。
同11(1568)年4月信濃飯山城を守った。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると、槍60丁、手明15人、鉄砲5丁、大小旗5本、馬上10騎の95人の軍役を負担した。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景勝方に付き、景虎を自害に追い込むなど景勝方の勝利に尽力したが、同8(1580)年恩賞問題のこじれから自害した。



安田景元( ?~? )

越中守。
越後国安田城城主。
広春の男。

安田氏は北条氏の支族であり、安芸毛利氏とも遠い一族にあたる。
長尾為景、謙信に仕えた。

天文3(1534)年、越後納下で上条定憲を破って為景から感状を与えられた。
同23(1554)年、一族の北条高広が武田信玄に通じて謙信に背いた時、景元はこれを直江景綱に報じ、弘治元(1555)年謙信に従ってこれを討った。



安田長秀( ?~天正10・1582年)

治部少輔。
揚北衆。越後国北蒲原郡白河庄安田条の領主。

長秀は伊豆大見氏の流れを汲む氏族で安田景元・顕元の系統とは全く別である。

大見氏は源頼朝の挙兵に参陣して功績があり、白河庄地頭職を拝領し、同族に水原氏がいる。

謙信の父・為景の代には既に臣従していたと見られ、天文13年には晴景から所領を新たに拝領している。
謙信が林泉寺を出て晴景を助けて越後を平定に乗り出した頃から謙信と行動を共にしており、晴景に代って謙信を擁立する運動にも参加した。
以後謙信とともに関東や信濃にも出陣する。

永禄4(1561)年の川中島の合戦の際には直江景綱や甘粕景持らとともに信玄の嫡男・義信の軍を倉科の辺りまで追撃し、戦後謙信から「血染めの感状」を頂いた。

天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景勝方に属し、恩賞を与えられた。
天正9(1581)年新発田重家が織田信長に通じて景勝に反旗を翻すと、その討伐にも赴く。
天正10(1582)年病没。



安田能元( ?~? )

弥九郎。上総介。
景元の男。

兄の顕元とともに天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱に景勝方として参戦した。
兄の死後、遺領を相続する。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」では知行高2474石7斗8升8合で軍役148人であった。
慶長3(1598)年の景勝の会津転封に従い、二本松城代に、ついで浅香城代となり1万1000石を領した。




山岸中務少輔( ?~? )

越後国黒滝城代。
景勝の臣。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると知行高2277石で軍役136人を負担した。



山岸隼人佐( ?~? )

黒滝城主。のちに桔梗城主も兼ねた。

謙信・景勝に仕える。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると槍35丁、手明10人、鉄砲2丁、大小旗3本、馬上5騎の55人の軍役を負担した。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名を連ねている。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では子の宮内少輔秀能とともに景勝方に付き軍功をあげた。
しかし文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」には登場しない。



山吉豊守(天文11・1542? ~天正5・1577年)

孫次郎。
山吉氏は越後国蒲原郡山吉の出身と云われ、三条長尾氏の被官となっていた。
三条長尾氏が府内に移り守護代となると、山吉氏が三条城主となった。

永禄12(1569)年以降旗本として謙信の側近にあり、奏者の地位を占めた。
天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によるとは槍235丁、手明40人、鉄砲20丁、大小旗30本、馬上52騎の377人の軍役を負担した。

戦場での働きの他に、主として小田原北条氏との折衝にあたり、越相同盟の成立に寄与した。
天正5(1577)年5月、36歳で病没。

遺領は弟の景長が継いだが、居城を木場城に移した。



吉江景資(大永7・1527~天正10・1582年)

織部助。
宗信の男。
越後国西蒲原郡吉江城城主。

謙信の旗本として遠征の際には春日山城の留守を預かった。
永禄2(1559)年謙信の上洛を祝して太刀を献上。
永禄10(1567)年5月16日下野唐沢山城を守る。
天正元(1573)年4月20日越中に在陣。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」に名を連ねている。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景勝方として戦功をあげる。
翌10(1582)年6月3日織田方に城を包囲され、他の城将らとともに玉砕した。



吉江資堅( ?~天正10・1582年)

喜四郎。信景。

彼はもと近江国の出身で謙信に召しだされて越後に来住し、吉江信清の家督を相続し、当初は信景と称した。
謙信の側近として披露・取り成しを担当した。

天正3(1575)年2月16日の「上杉氏軍役帳」によると槍60丁、手明15人、鉄砲5丁、大小旗10本、馬上15騎の105人の軍役を負担した。

天正4(1576)年12月24日石動山城を築き、直江景綱らと守った。
天正5(1577)年12月23日の上杉軍団動員名簿「上杉家家中名字尽手本」にも名を連ねている。
天正6(1578)年、謙信没後の御館の乱では景勝方につき軍功を立てた。
天正9(1581)年から越中魚津城の守備に赴いたが、翌10(1582)年6月3日織田方に城を包囲され、一族の吉江宗信・景資父子を初めとする他の城将らとともに玉砕した。




吉江宗信(永正2・1505~天正10・1582年)

与橘。木工助。常陸入道宗闇。
越後国西蒲原郡吉江城城主。

謙信・景勝に仕える。
天正9(1581)年から越中魚津城の守備に赴いたが、翌10(1582)年6月3日織田方に城を包囲され、他の城将らとともに玉砕した。