◆国鉄史上最強の勇士、489系交直流両用特急型電車物語


(執筆:碓氷六三郎殿 ・写真:急行「能登」の画像は駅長、その他は碓氷六三郎殿提供)




【登場以前】

横川ー軽井沢間(通称・碓氷峠)の急勾配のため、同区間には連結両数及び重量の制限が設けられておりました。

このため、信越本線では長大編成の電車または気動車が運転できない状態でした。例を挙げて見ますと・・・


● 特急「あさま」(上野ー長野・直江津)・・・8両編成・食堂車無し

● 特急「はくたか」(上野ー金沢)・・・需要増に伴う編成両数増加(11両)のため、上越線経由に変更

● 急行「白山」(上野ー金沢)・・・時代遅れの昼行客車列車(10両)ながら常時満員の状態


この事態を打開するため、横軽間対応機構を備えた車輛の製作が決定します。

これが、急行形の169系・特急形の489系となるわけです。

ちなみに489系の製作決定は、いわば急行「白山」の特急格上げを前提としたものでしたが、特急「あさま」については当時としてはあまりにも短距離の特急であったため、現行車輛(181系)のままで粘る方針が採られたようです。





【登場】



ありし日の489系特急「白山」
1971年夏に489系の第一陣2編成が落成。

直ちに京都・向日町運転所に配置され、同時に碓氷峠に於ける試運転が開始されます。

この試運転は翌1972年まで続きますが、この間には当時不足気味であった山陽ー九州方面特急の応援にも駈り出され、西鹿児島まで足を伸ばしたこともあったそうです。

1972年3月から、本来の目的であった特急「白山」の運用につきます。

食堂車を含む堂々の12両編成で、沿線の注目を集めました。





【奮闘】

特急「白山」は1973年10月までに3往復体制まで増発されますが、489系はその他にも「雷鳥」(大阪ー金沢・富山・新潟)や臨時の「あさま」「そよかぜ」(上野ー中軽井沢)の運用にも充当されています。

また、1973年冬には、車輛故障で次々とダウンした181系の代走として、上越線特急「とき」にも充当されていました。

ただ、このような奮闘を見せた489系にも弱点がありました。それは、編成に於ける動力車の比率が低すぎて(12両中6両)、山岳区間で動力系統の故障が発生したときに対応のしようがなくなってしまうということです。

この弱点の克服と、更なる需要増加に対応するため、489系は食堂車を含む付随車輛2両を普通座席の動力車輛に差し替える改造を受けています(1979年4月)。

また、この改造作業の終了とともに、上越線経由の「はくたか」の運用にも就くこととなりました。




【転機】

1982年11月、上越新幹線開業。

これに伴い上越線経由の特急「はくたか」をはじめ、多くの在来線特急が廃止されてしまいました。

ただし「白山」に限っては1便も減らされなかったばかりか、食堂車が復活し、唯一の明るい話題の主となりました。


ところが1985年3月、東北・上越新幹線が上野まで乗り入れると、こんどは「白山」も1往復減便となり、2年半前に“奇跡の復活”を果たしたばかりの食堂車がまたしても取り上げられ、編成自体も9両編成にまで縮小されてしまいました。

どうもこのあたりから「白山」は“新幹線の敵”として目をつけられてしまったようです。

ちなみにこのときに“引っこ抜かれた”食堂車(サシ489)は紆余曲折の末に24系寝台客車に改造され、寝台特急「北斗星」(上野ー札幌)の食堂車「グランシャリオ」として活躍しています。


以前は「白山」に連結されていた
北斗星の食堂車・グランシャリオ





【脇役】



塗色変更後の「白山」
1989年3月、JR西日本・金沢支社は「白山」用489系9両×4編成に改造を施します。

白地にピンクと濃淡ブルーの帯を巻いた通称“白山色”ですが、周りからの反応は賛否両論でした。

また6号車の半室がラウンジカー(軽食堂+ロビー)となりましたが、こちらの方は好評だったようです(中には「本物の食堂車がいい」と駄々をこねる向きもありましたが・・・)。

ちなみにこの時期の489系は、メインの「白山」以外に「あさま」「雷鳥」「しらさぎ」(名古屋ー金沢・富山)に充当された他、「星陵高校甲子園号」などの団体臨時列車の運用にも就いていましたが、「白山」以外の列車でラウンジが営業されることはありませんでした。



また、1974年以降、489系車輛は全車が金沢運転所の所属とされていましたが(それまでは向日町)、1986年からは一部の489系が長野運転所に配置換えとなっています。

このような活性化策に活路を見出したかに見えた「白山」ですが、1992年3月「これ以上新幹線の客を奪うのはまかりならん!」とばかりに1往復減便され、とうとう1往復体勢となってしまいました。

489系はメインの活躍の場が減ったため、これ以降は“増援部隊”としての活躍が目に付くようになります。

なお、夜行急行「能登」(上野ー金沢・信越本線経由)に充当されるのは1993年3月からです。


白山のラウンジカーの内部





【「白山」終焉】



上野駅で発車を待つ489系急行「能登」

1997年9月末日、信越本線横川ー軽井沢間廃止。

これに伴い“線路のなくなった”特急「白山」はとうとう廃止となりました。

廃止直前は「白山」を惜しむ声も根強く聞かれ、なかには「中央東線ー篠ノ井線ー信越本線経由で残せ」という評論家先生もいたようですが、結局それらの声が聞き入れられることはありませんでした。

489系はメインの活躍の場を失い、夜行急行「能登」(上野ー金沢・上越線経由)1往復のほかは臨時特急や団体列車用の波動用車輛として現在に至っています。

2004年夏の臨時「はくたか」(越後湯沢ー金沢)での快走は記憶に新しいところです。




西鹿児島から新潟まで(改造車輛を含めれば札幌)全国に足跡を残し、ある意味“日本最強の電車車輛”であった489系ですが、いまではもう表舞台に立つことは殆どありません。

ただし、「白山」で使用していた関係から、首都圏用の車載信号システム(ATSーP)を金沢地区で唯一搭載している車両であり、その活躍はもうしばらく見ることが出来そうです。




【特急「はくたか」(初代)】

特急「はくたか」(上野ー金沢)は1965年10月に当時の“信越白鳥”(特急「白鳥」/大阪ー上野・青森 の上野行き編成)を独立させる形で登場しました。

登場当時は信越本線経由で、キハ82系特急形気動車7両編成(食堂車付)を使用していました。

しかし、首都圏ー北陸間での需要増加から編成増の必要性に迫られることとなり、1969年に上越線経由に変更、同時に485系特急形電車11両編成(京都・向日町運転所所属)に置き換えられました。

なお、この経由路線変更については、特急「あさま」が信越本線直江津までをカバーしていたからという理由もあったようですが、181系8両食堂車無しの「あさま」ではやはり「はくたか」の穴を埋めきれず、これが当時の急行だった「白山」の特急格上げの要因(=489系製作決定の要因)の一つとなります。

その後、1976年に12両化されたあと、1979年4月に489系12両に置換(同時に2往復に増発)、そして1982年11月に廃止されたのは「白山」関連頁で書いたとおりです。




【特急「あさま」】

1961年に長野ー新潟間の準急として登場した「あさま」は、以降“長野の秘蔵っ子”として順調に出世。

1966年10月から上野ー長野・直江津間の特急の任に就きます(181系使用)。

しかし、碓氷峠の“制限”の関係から食堂車が連結されず、編成両数も8両に限定されるなど、いわば“力不足”が目立つ列車でもありました。

本来「白山」用に開発された489系が「あさま」に充当されたのも当然の成り行きといえるでしょう。

(注:上野ー直江津間は全線直流電化のため、489系の“交直両用機能”は本来必要無い)






熊ノ平信号場を通過する189系特急「あさま」

この「あさま」の最初の転機は1975年6月。

1973年冬の大雪で上越線特急「とき」(上野ー新潟)に使用していた181系が次々とダウンした関係から、新型車輛(183-1000系)の製作が決定します。

これに併せて「あさま」用の新型車輛も製作が決定。

189系直流形特急電車(横軽機能付)が登場するのです。

これによって「あさま」も12両となり、輸送能力でようやく「白山」と互角になりました(ただしやっぱり食堂車無し・・・涙)。その後「あさま」は、急行「信州」(上野ー長野)や「妙高」(上野ー直江津)を併合する形で勢力を拡大。最終的に新幹線にまで出世(1997年10月)したことは周知のとおりです。





【特急「はくたか」(二代目)】

1997年3月、北越北線(通称ほくほく線)開業。

余談ですが、この北越北線は建設費凍結(建設中断)や難工事など、プロジェクトXの題材になってもおかしくないほどのドラマを経て誕生した路線でした。

(故・宮脇俊三氏の「線路の無い時刻表」にて、その一端をうかがい知ることが出来ます)




ほくほく線を快走する681系「はくたか」
このときに越後湯沢ー金沢間の新幹線アクセス特急としてJR西日本が白羽の矢を立てた列車こそが、特急「はくたか」でした。

当時のファンは「はくたか」の華麗なる復活に沸いたものでしたが、多少ブランクが空いている上に、以前の特急「はくたか」とは性格がまるで違いますから、二代目と呼んだ方が正しい気がします。

北越北線は高速運転を前提として設計されているため、この二代目「はくたか」には最新鋭の681系が投入されました。

ただし、車輛数の足りないところには旧来からの車輛も充当おり、その良い例が489系による臨時「はくたか」と言えるでしょう。

2002年3月、160㌔運転開始(681系使用列車に限る)。

二代目「はくたか」はついに全国の在来線特急の頂点に立ち、そのまま現在に至っています。





【急行・特急「白山」】

1954年10月、それまでの準急「高原」を格上げする形で登場した信越本線初の急行「白山」(上野ー金沢)は、加賀の名峰からとったその名とは裏腹に、その生涯を碓氷峠に捧げた列車でした。

1972年の特急格上げまで、「白山」は客車急行のままでしたが、これはあまりも人気が高すぎて(常時ほぼ満員)電車化が出来なかった(制限に引っかかって定員減につながる)というのが真相のようです。

余談ながら、1966年9月にTBSラジオで放送された「遠い汽笛」のモデル?となったのもこの「白山」でした。

1972年3月、特急に格上げ。特急「白山」の歴史はそのまま489系電車の歴史と言えますから、本頁の方を参照して頂きたいと思います。







※参考文献
特急はくたか(名列車列伝シリーズ17)イカロス出版
徹底チェック特急全列車・東日本編 中央書院