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■謙信の父・為景


謙信登場を語る上で欠かすことの出来ないのが父長尾為景の存在である。


為景は生涯に百度余りも合戦をしたと云われており、後述するように越後守護上杉房能と関東管領上杉顕定の兄弟を相次いで討ち取り、二人の主筋の者を討ち取った下克上の典型ともいうべき人物であった。

永正3(1506)年9月、加賀の一向一揆と戦った能景(為景の父すなわち謙信の祖父)が越中般若野で討死すると、為景は第十代越後守護代に就任し、越後の国政を担った。

だが、就任の翌年である永正4(1507)年、為景は守護・上杉房能に対し挙兵する。

理由は守護上杉房能が、専横の振る舞いが多く、為景の諫言も聞き入れないことにあった。


室町時代の越後の状況は、多くは鎌倉期の地頭職に由来を持つ在地領主(揚北衆など)と守護上杉氏や守護代長尾氏が、お互いの権益を認め合いつつバランスよく並存しているといった状態であった。

そして15世紀後半の守護上杉房定の時代がその成熟期であった。

だが、守護職に上杉房能が就任すると状況が一変し、従来の権力のバランスが崩されてしまう。

それは彼が守護大名としての強い意識を持ちつつ、検地や守護使不入権の撤廃など、自身に国内の権限を集中させる政策を積極的に打ち出したからであった。

これらの政策は守護代や在地領主たちの権益を否定するものであったため、激しい抵抗運動を招くことになった。

こうした状況を見た為景は国内の領主達の意を汲んで挙兵に踏み切ったものとみられる。


だが、為景は慎重にことを運んだ。

まず房能の養子・定実を前面に立て、幕府の了承を得た上で兵を集めた。

荒川館(あらかわだて・守護代長尾為景の屋敷)の不穏な空気はすぐに稲荷館(いなりだて・守護上杉氏の居館)にも伝わり、国内に檄を飛ばすも一族郎党の他は誰も馳せ参じない。

この現状に房能ら一門は稲荷館を抜け出し、兄顕定のいる関東を目指し逃げ出したのである。

為景は彼らを逃がすまいと素早く後を追い、千曲川の手前の天水越で房能の一行は捕捉され、逃げる術なしと悟った房能は自害し、残った一門や家臣らはことごとく討死して果てた。

この場に間に合わなかった房能に助力しようとした者も為景に討たれた。

房能の死の報せは関東管領の兄・上杉顕定の耳にも届いた。

激怒した顕定は永正6(1509)年7月、養子の憲房とともに8000余騎の軍勢を率いて、弟の復讐をすべく越後に攻め入った。

守護定実や為景は府中を守り通すことが出来ず、一旦は越後を脱出して越中にまで退いたが、翌年の4月から5月にかけて反撃に出た。

こうして6月20日の日没時、顕定は越後の六日町近くの長森原で討ち取られたのであった。

かくして戦乱が一段落した頃、為景は妻を娶り、長男・道一(後の晴景)が誕生した。永正9(1512)年のことらしい。



この時点で為景は実質的に守護といっても過言ではなく、守護・上杉定実の存在は無きに等しかった。

このことは後年、道一が長ずるに及んで、将軍の名の一字を拝領し「晴景」と名乗らせたり、「毛氈の鞍覆」や「白笠袋」の使用免許を得る(これらは守護大名にしか使用が認められていなかった)など、守護の家臣すなわち陪臣としてではなく将軍直属の大名として公に認められることとなったのである。


為景の傀儡とされてしまった定実はこれに不満を持ち、永正11(1514)年11月に挙兵し、為景の軍と六日町で衝突するも、為景の軍が圧倒的な勝利を収めた。

以後、守護・定実は為景に対して従順になるも、長尾氏を専横を快く思わない揚北衆等の在地領主、同族の上田長尾房長(政景の父)も越後には数多くおり、為景は彼らの反抗に手を焼かされた。


隣国の越中の守護代・神保氏の要請により越中に度々出陣するなど、対外的には誠に威勢が良かったが、反面、為景は国内の反対勢力にも対処しなければならず、その覇者としての道のりは必ずしも平坦ではなかったのである。


謙信はこのような情勢の中で、為景の末子として生まれたのであった。