■謙信公伝(出生~元服)



◆幼少期の謙信とその家族達

後年義に厚い名将と謳われた上杉謙信は享禄3(1530)年に生まれ幼名を虎千代と称した。

父は越後守護代長尾為景、母は同族で栖吉城主の長尾房景(一説に顕吉)の娘・虎御前(実名は不詳)である。

「謙信」の名称はその晩年に出家・剃髪して以後の名であり、彼はこの後「景虎」、「政虎」、「輝虎」と改めるのであるが、繁雑さを避ける為にここでは「謙信」の名で統一することにする。

兄弟は確かなところで18歳離れた兄の晴景、6歳離れた姉の仙桃院(同じく実名は不詳)、3歳上の兄(この兄については確かなことは分からない)がいるが、「上杉家御年譜」等には他にも何人かの兄弟姉妹が居るとされている。

だが、彼らの名は史料によってまちまちであり、どの史料を信用してよいものか正直それがしには見当着きかねるためここでは特には取り上げないことにする。

(「上杉三代日記」には「景康」・「景房」の名で、また「上杉家御年譜」には「景直」・「景久」の名で記されており、景直には数名の子がいるとある)

また、虎御前の没年と其の時の年齢から逆算すると永正9(1512)年頃の生まれとされる兄晴景と同年ということになるため、晴景の生母は別に居ることがわかるが、その詳細は伝わっていない。

だが、仙桃院と3つ違いの兄の生母は虎御前である。

謙信は幼少時には父や兄との交流はあまりなかったらしい。

だが、反面母の虎御前からは観音信仰を仕込まれるなど多大な影響を受けていたようだ。


さて、謙信が7歳の時の天文5(1536)年に父為景は嫡子の晴景に家督を譲り自身は隠居・出家した。そして通説では同年亡くなったとされている(もっとも最近の研究で、天文11(1542)年頃まで生存し、晴景を陰で支えていたとする説が有力になっている)。

そして謙信自身はこの年僧侶となるべく林泉寺に入れられ天室光育を師として禅僧として修行を積み学問を学んだ。

師と母の薫陶がその後の謙信の信仰心、また人生観や人となりを形作ったのであろう。




◆兄・長尾晴景

一方、父為景に代って守護代として国政を司った晴景は、為政者として無能、器量が欠けている云々と評され後世至って評判が良くないが、果たしてそうだろうか?

確かに父為景や弟謙信が武将・政治家として卓越していた分、彼らに比べるとどうしても見劣りがするのは致し方ない。

また結果的に在地領主達を完全に押さえ切れなかったという結果論でみるとそういった眼で見られてしまうのも無理からぬことでもある。

しかし、晴景の政策や業績を見てみると、無能どころかなかなか政治的手腕に長けたやり手の人物だったように思われる。

晴景は守護代に就任すると、その強引な政策で越後国内の在地領主たちの反感を買った父為景とは打って変わって在地の既成勢力と宥和し、時の守護上杉定実を表に立て、自らは一歩退いた形で国政を担当し、一応在地領主達を手なずけることに成功した。

また、同族でありながら犬猿の仲であった上田長尾氏の嫡男・政景に妹・仙桃院を嫁がせて縁戚関係を結び、彼らを取り込むことにも成功した。

林泉寺に入っていた謙信を呼び戻して元服させ中越の押さえとすべく栃尾城に配したのも長尾一族の地域支配の強化の為であったと考えられている。

かくして享禄年間から続いた「越後天文の乱」は一応の終結を見せ、国内には平和が戻ったのであった。



だが、晴景はこの後病気がちとなり、床に伏せる日が多くなっていくのである。

 ところで、林泉寺から呼び戻された謙信は天文12(1543)年、14歳で元服し、幼名の「虎千代」を「平三景虎」と改めた。

そして、三条城、ついで栃尾城に派遣されたのであった。