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■謙信公伝(元服~関東管領就任)



◆謙信の台頭・家督相続

栃尾城に派遣された謙信は、家臣・本庄実乃や栖吉城主で祖父の長尾房景、伯父の景信らの補佐の下、中越の押さえとしての責務を遂行した。

そして、彼の武勇は程なく示されることになる。

為景の死後程無い天文11(1542)年頃、それまで守護や守護代に忠実に仕えていた黒田秀忠が反旗を翻した。

謙信らに攻められた秀忠は降伏し、剃髪・出家すると言ってきたので、謙信も一度は許したが、同15(1546)年2月にはまたもや反旗を翻した。

この時の謙信の行動は素早かった。

電光石火、栃尾から出兵した謙信は黒田氏の居城・黒瀧城を取り囲み、落城させ、黒田一族全てを皆殺しにしたのであった。

この時の戦いぶりを聞いた越後の領主たちの間では謙信の人気はいや増して高まった。

中でも為景の妹婿の高梨政頼とその娘婿・中條藤資が謙信の擁立運動に熱心であった。


これに対し、晴景は無論面白くなかっただろうし、謙信の擁立に反対する上田長尾の房長・政景父子もいた。

やがて、越後国内は晴景派と謙信派に分かれて一触即発の事態にまで発展する。

だが、実際に戦闘になったかどうかは定かではない(「北越軍記」には謙信と兄・晴景が戦闘を繰り広げ、戦闘に勝利した謙信は、晴景を自害させて守護代の座を勝ち取ったとするが、事実ではない)。



そうした険悪な空気の中、守護・上杉定実が両者を和解させ、謙信が兄・晴景の養子となることによって円満に守護代の座を継ぐことになった。

晴景は謙信の活躍を尻目に見ながら、ひっそりと生き、天文22(1553)年に42歳で病死したという。

天文17(1548)年12月、謙信は春日山城に入り、第12代守護代として長尾家の家督を継いだ。時に謙信19歳のことであった。




◆越後統一

だが、依然謙信の守護代就任を面白く思わない人物もいた。

坂戸城主の長尾政景(のちの謙信の養子・景勝の実父)である。

彼は謙信の守護代就任後も帰服せず、春日山に出仕もせず、領地に留まっていた。

その他、国内には様々な問題が山積しており、謙信の前途は険しいものがあったのである。

天文19(1550)の12月、とうとう坂戸城の長尾政景が反乱を起した。

謙信は実質的な国主としての立場を以って、国内で今や反逆者をなった政景を討伐することにした。

翌天文20(1551)年1月、謙信は政景に従う上田衆の一人、発智長芳の板木城を攻めた。

それを知った政景は板木城に援軍を差し向けたが、其の到着を待たずに落城したしまった。

のみならず、それまで政景方についていた琵琶島城主の宇佐美定満も謙信方についてしまった。

そして謙信は坂戸城総攻撃を同年8月1日と定め、出立するばかりになっていた。

こうした状況に形勢不利とみた長尾房長・政景父子は謙信に降伏してきたのである。

当初、謙信はたとえ降伏してきたとしても彼らを許さず成敗するつもりであったが、これを許し臣下とした。

このことは姉の嫁ぎ先であることや母・虎御前の心情を慮ってこれを許したものらしい。

この政景の降伏を以って父祖以来の悲願であった越後の統一は成ったのであった。




◆各方面より来る出陣要請

一方、天文18(1549)年、平井城の関東管領・上杉憲政から救援要請が来た。

憲政の父・憲房の養父は為景に攻め殺された顕定であり、本来は長尾氏は管領家にとっては敵であるのだが、北條氏の猛攻により、恥も外聞も捨てて謙信を頼ったのである。

謙信としてもそんな憲政の援軍に馳せ参じたかったのであるが、先述の国内の状況により、断念せざるを得なかったのである。


天文19(1550)年、上杉定実が没した。相当な老齢であったが、跡継ぎとなる男子に恵まれず、しかも養子として迎え入れるはずだった外曾孫の伊達実元(伊達稙宗の子)も上杉・伊達側の双方の反対派の為に立ち消えになったため、ここに越後守護上杉氏は断絶した。

余談であるが、江戸期以来伊達家が定紋として使用している「竹に雀(仙台笹)」の家紋はこの時の養子縁組の約束の時に上杉家から贈られたものであり、縁組が破談となった後も使われているものである。

このことを受けて、謙信は父・為景と同じく将軍義輝より国主の待遇を受け、毛氈の鞍覆いと白笠袋の使用を免許された。

もっとも、こうした国主待遇に関しては父・為景の時代にも朝廷や幕府に多額の寄進をして誼を通じていたことにより、受けていたのであるが、この時に初めて正式なものとなったのである。


さて、その翌年の天文21(1552)年の1月、雪深い三国峠を越えて先に述べた上杉憲政が越後にやってきた。

彼自ら出向いての出陣要請かと思いきや、居城の平井城を北條氏に攻め落とされ僅かな近臣達とともに命からがら逃げて来たのだという。

そして越後国内に住まわせてくれることと居城平井城と上野国の奪還を要請し、代わりに関東管領職と上杉家の名跡を譲ることを約束したのである。
関東管領といえば越後の守護代に過ぎぬ謙信にとっては高貴な人物と映ったのであろう、そのような人物に頼られて悪い気はしなかったであろう。

また義侠心に富む謙信のこと、落ちぶれた貴人を放っておけるはずも無く、関東の秩序回復の志に燃えて関東への出陣を決意したのであった。

もっとも、北條氏康を初めとした関東の諸将達は「関東管領」などはとっくに権威も失墜した有名無実なものだと気付いており、常陸の佐竹義昭も関東管領職と上杉の家名を譲るという持ちかけを一蹴しているくらいである。

だが、謙信の関東出陣は後述するように様々な問題が惹起し、8年後の永禄3(1560)年まで待たなければならなかった。


この年の5月には朝廷より従五位下弾正少弼の叙任を受け、諸大夫・殿上人の仲間入りをすることとなった。

この時の叙任に際しても謙信は朝廷は元よりその関連の人々に対して少なからぬ金品を贈り下工作をしておいたのである。


この官位叙任の御礼として、上洛をすることにしたが、越後から京に至るまでの道筋には朝倉氏、そして加賀・越中の一向一揆が居て、そのままでは通ることは出来ない。

朝倉氏とは以前、父・為景の時代に同盟して一揆に対抗したこともあり、関係はさほど悪くはないのだが、問題は一向一揆である。

長尾氏と一向宗とはかつては何度も干戈を交えており、謙信の祖父・能景は彼らに討ち取られてもいるので、為景の頃より一向宗を禁制しており、敵対関係にあったのである。


こうした敵に対してもこの時ばかりは信濃から越後に来ていた本誓寺の僧・超賢に仲介を頼み、越前吉崎にいる本願寺10世・証如の働きかけで門徒に謙信の通行を妨げないように説得してもらった。

かくして上洛に対しての準備を着々と進めていたのであった。


翌天文22(1553)年の6月、北信濃の領主・村上義清高梨政頼らが越後にやって来て謙信に救援を要請した。

彼らは武田信玄の配下になることを嫌って抵抗してきたのであったが、武運尽きて所領を追われ、やむなく越後に亡命してきたのであった。

中でも高梨政頼は長尾氏とは縁戚関係にあり、放って置く事は出来ず、また、北信濃に武田の侵入を許してしまっては越後の方にも侵略の手が伸びてくるのは目に見えていたので、祖国を守るという軍事上のこともあり、救援を承諾したのであろう。




◆毘沙門天の化身として各地に出陣

この救援の要請を受けて幾日も経たぬ4月22日、謙信は一部の将兵を率いて姥捨山北麓にやってきた。

謙信は信玄の北上を牽制するためなのであるが、その予想外の速さに信玄も驚き、ひとまずは兵を引いた。

そして8月、兵を出し、川中島に進軍し、布施で初めて武田信玄と干戈を交えた。

第一回川中島の合戦(布施の戦い)である。

この時はお互い敵を知らなかったのもあるので、両軍とも慎重にことを構え、本格的な戦いになることもなく双方は本国に引き上げた。

以後12年間に渡り、5回の合戦を通して信玄と干戈を交えることになるのである。


9月、かねてより予定していた上洛を開始する。

宮中に参内し、任官の御礼を言上する。
そして広橋大納言を通じて、「いよいよ敵を討ち、忠を尽くすよう」との御言葉と共に天盃と無銘の豊後瓜実御剣を頂戴した。

このことで、謙信の軍事行動には大義名分ができ、以後謙信に刃向かう者はすべて朝敵ということになるのである。


ついで将軍・義輝にも拝謁したと言うことだが、将軍は永禄元(1558)年まで京を追われて近江朽木谷に身を寄せているとのことなので、実際にこの時会談があったのかどうかは疑わしい。


その後、堺に向かうが、その途中に石山本願寺に使者を送って先般の加賀・越中の一揆に対する働きかけに対しての御礼として金品を贈らせた。
それに対し、証如からも返礼の品が謙信の下に届けられた。

この件以後、越後国内でも一向宗の布教が許されることになったのである。


堺の訪問の後は高野山に詣で、12月8日には京に戻り、大徳寺に詣で、前住職の徹岫宗九より「宗心」の法号も頂いている。

上洛の目的を果たした謙信はその年のうちに帰国した。


翌々年の天文24(1555、この年には改元され弘治元年となる)年の2月、中越の領主・北条(きたじょう)高広が謀反を抱いているとの報せが入った。

通報したのは同族の安田景元であり、謙信はすぐさま宇佐美定満、柿崎景家らとともに自ら安田城に入り、安田氏を支援した。

この素早い行動に北条氏はなすすべもなく降伏を申し入れた。

謙信はこれを許し、以前の通り用いた。

彼の謀反の理由が如何なるものであったかは、武田信玄による調略に乗ってしまったという説が有力であるが真相は依然謎である。


4月中旬、謙信は信濃川中島に出陣し、栗田寛明の居城・堀ノ内城を足がかりに川中島周辺に砦を築く。
第二回川中島合戦である。

一方信玄は、栗田永寿(前述・栗田氏の分家)の城・旭山城を足がかりに、自らは犀川の南に陣取った。

7月19日、上杉軍は犀川を渡って武田軍に攻めかかるも程なく押し戻された。

この時の謙信は短期間に決着をつけるつもりだったようだが、押し戻されたことで再度渡河しづらくなり、やむなく持久戦に入った。

この間、謙信は参陣の諸将から誓紙を取っている。

内容は「何年在陣したと雖も主君のため命ぜられるままに働くこと…」などである。

そのような誓紙を取らなければならないほどに将兵達の士気は低下していたのであろう。

厭戦気分が漂う中、駿河の今川義元が和議を持ちかけてきたのである。

彼は前年に小田原の北条氏康・甲府の武田信玄と婚姻を介した同盟を結んでいたので、長陣で困惑している信玄からの頼みにより一肌脱ごうと思い立ったのであろう。

和議の内容は謙信にとっても決して不利な内容ではなかったので、渡りに船とばかりに承諾し、越後に引き上げた。


ところが…

翌弘治2(1556)年の3月には家臣たちに出家の意思を伝え、6月28日、謙信は突如城を抜け出して高野山に向かったのである。

第二回の川中島の合戦から帰国した謙信は今度は越後国内の領主達の所領争いに振り回されることになり、それらにほとほと嫌気が差したというのが原因と言われている。

しかし、父祖以来の越後国内を統一し、対外的にも義将としての名をほしいままにする彼が一体何故このような行動を? 

彼の行動が家臣達に忠誠を誓わせるための芝居と言う御仁もいるようであるが、謙信が恩師・天室光育にあてた自己の心情を長文で認めた手紙が残っているところをみると果たしてそのような芝居に恩師を巻き込むことができるのであろうかと思ってしまう。

謙信の性格についてはそれがしのような者が物申すのは憚られることではあるが、かなり浮き沈みの激しい御性格だったのではないか。

それがしにもかなり当てはまる部分があるので、その時の謙信の心情はある程度わかりような気がする。


ともあれ、謙信出奔の報せを聞いた国内は大騒ぎである。

かつて謙信と争ったことのある長尾政景は一度はそれこそ好機とばかりに国主の座を狙おうと考えたことであったろう。

しかし、彼は謙信に取って代わるどころか、かえって説得する側に回っているのである。

これまで謙信の器量を目の当たりに見てきた政景は自分は国主の器に相応しくないと悟ったからであろうか。

春日山城での重臣たちの評定のあと、政景は謙信を説得するために後を追った。

そして信越国境の関山権現で祈祷している謙信に追いついた。

必死の説得により、謙信も還俗を決意し、城に戻ったのである。


ところで、この出奔騒ぎの時に家臣の大熊朝秀が出奔し反旗を翻したのである。

朝秀は越後守護上杉氏の譜代の家臣であったが、謙信の登場以来、長尾直属の家臣達が幅を利かせていく中で次第に居づらくなったのであろうか。

その辺りの心理を信玄に付け込まれたのかもしれない。

朝秀はまず越後を出て越中にてひとまず信玄の救援を待ったが、謙信が大熊氏討伐の兵を起こすと朝秀は越後に向かって攻撃を仕掛けてきた。

しかし朝秀は敗れ、甲府の信玄の下に逃れそのまま武田家臣として仕え武田氏と命運を共にしたのである。


翌弘治3(1557)年1月には信州の更科八幡に願文を捧げ、信濃静謐を祈った。

この願文の中で謙信は信玄の悪行を縷々書き連ねているのが興味深い。

2月に信玄率いる武田軍が落合備前守の守る善光寺近くの葛山城を攻め、さらに3月には高梨政頼の守る飯山城を取り囲むと、謙信はすぐに援軍を送り、4月半ばには謙信自身も善光寺近くまで出陣し、武田軍を追い散らした。

そして8月には川中島で上野原を中心に戦いが繰り広げられたが、決戦には至らず、謙信は不毛のうちに越後に帰国した。
(第三回川中島合戦)



翌々年の永禄2(1559)年4月、謙信は第二回の上洛の途についた。

京では時の天皇・正親町天皇に拝謁し、将軍・義輝や関白・近衛前久らと親しく交流した。

若く歳もさほど離れていない3人は意気投合したという。

京には10月まで滞在し、かなりの長期滞在となったが、この際の上洛で謙信の関東管領就任が内定したことは大きな収穫であった。


年明けて永禄3(1560)年3月には、越後に侵入しようとした越中富山城主・神保良春を討つべく越中に出陣する。

富山城を落とし、良春が増山城に逃げるとそちらも攻略し、月末には越後に帰還した。


すると彼の帰還を待っていたかのように関東管領・上杉憲政が関東遠征を催促した。

関東では北条氏康は関東の大半を手中に収め、それを快しとしない里見義尭や佐竹義昭らが上杉憲政を通じて援軍の要請をしてきたからであった。

援軍を求める佐竹義昭に対し、「依怙によりて弓箭は取らぬ。筋目を以って何方へも合力致す」と述べている。

謙信の軍事行動に対する考え方を端的に表している言葉である。


8月下旬、謙信は越後を出発し上野国厩橋(まやばし)城に入った(第一回関東遠征)。

そして先陣隊に関東の諸城を攻略させた。

この報せを聞いた関白の近衛前久は好機とばかりに越後にやってきたので、謙信は厩橋城に招いて歓待した。

そればかりでなく彼を関東公方にまでしようとしたのである。

本来の関東公方は足利義氏であるが、北条氏の進展に伴い、その勢力化に取り込まれてしまっていたから、義氏に代わる大義名分として前久を担ごうとしたのであった。

一方、先陣隊が相模に進出したのを見た北条氏康は義氏とともに小田原城に立ち籠った。


翌永禄4(1561)年2月、謙信は厩橋城を出立して、小田原を目指して進軍した。

上杉軍7000に加えて相模以外の関東七州の諸将の軍も加わり、総勢数万の軍勢に膨れ上がっている。

3月には小田原に進出し、13日には総攻撃を開始する。

しかし、北条方は難攻不落の城に立て籠もって全く相手にしない。

上杉軍も越後から長い兵站線をいつまでも維持できるわけではない。

そのうちに引き上げるであろうという氏康の予想通り、謙信は小田原から引き上げた。


帰国の途中、鎌倉の鶴岡八幡宮に立ち寄り、閏3月16日、謙信は関東管領への就任式を執り行った。

関東七州の諸将が参列する中、上杉憲政の養子となって上杉姓と名の一字を拝領し、「上杉政虎」と名乗ることとなった。

尚、この年の暮れにはさらに将軍・義輝の一字を拝領し、「輝虎」と改名している。

これ以後それまでの長尾氏を改め、上杉氏を称するのである。

余談ではあるが、ライバルであった北条氏康や武田信玄らは謙信を決して上杉とは呼ばず、最後まで「長尾」と呼んだ。

謙信を上杉と呼ぶことはすなわち、関東管領すなわち関東の支配者だと認めたことになり、それは絶対に許すことは出来ないことだからである。