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■上杉謙信傳  (両雄激突!川中島合戦…暫定版…



◆決戦! 川中島合戦!!


海津城遠望
謙信が関東遠征で不在の間のすきをみて、何と北信濃では信玄が千曲川の東岸に海津城を築き、香坂弾正昌信を入れて守りに就かせていたのである。

このまま捨て置くわけにはいかない、とばかりに疲れを癒す間もなく、8月14日、1万8千の大軍を率いて春日山を出立し信濃川中島に向かった。

謙信:「おのれ、信玄!目に物を見せて呉れようぞ!!」
出陣の檄を飛ばす謙信
神仏に戦勝祈願する謙信
謙信:「毘沙門様、願わくは我らに御加護を…
かならずや信玄を討ち果たして御覧に入れまする!」


世に名高い「川中島の合戦」はこの永禄4(1561)年の「第4回・八幡原の戦い」のことを云う場合が多い。

数々の伝説に彩られたこの合戦ではあるが、実のところ、この合戦のことを詳細に記した良質の史料はまだ見つかっておらず、真相は謎である。

この合戦に関する記事は上杉方の「上杉年譜」、武田方の「甲陽軍鑑」にしるされてはいるが、そのどちらも合戦から数十年後の江戸初期に執筆・編纂されたものであり、どの程度信用してよいものか分からないからである。



この合戦に対する文献的・実地的な検証は別な機会でするとして、ここではとりあえず合戦記に記された大まかな流れを見ていきたいと思う。






妻女山遠望
謙信率いる上杉軍は、善光寺に到着したところで軍を2つに分け、ここに大荷駄隊と後詰部隊として5千の兵を残した。

そして、自らは1万3千の兵を率いて千曲川南岸にある小高い山・妻女山に陣取った。


この報せを聞いた信玄も8月18日、1万6千の兵を率いて躑躅が崎館を出立し、24日には川中島に到着し、雨宮の渡しの西岸に陣を敷き、上杉軍の退路を断った。

ここで両軍ともしばらく膠着状態を続け、互いに相手の出方を伺っていた。
物見をする謙信
海津城城内の碑
上杉軍が動かないのを見た信玄は8月29日、海津城に入り、さらに相手の様子を伺う。





越後から持参してきた兵糧も長期にわたる布陣の為残り少なくなり、家臣たちは焦り、行動を起こすよう進言する者も現れるが、謙信は動じない。

一方、その事情は武田軍も同様であった。

信玄の軍師(はなはだ疑わしいが…)山本勘助晴幸は信玄に対し、「啄木鳥(きつつき)の戦法」を進言した。


その啄木鳥の戦法とは…

軍を本隊と別働隊の2つに分け、別働隊に妻女山を急襲させる。

襲われた上杉軍はその別働隊との戦いに勝っても負けても山を降りて平地に降りてくることは間違いないから、そこを本隊が一気に殲滅する…

あたかもきつつきが虫のいる穴の反対側を突いて、驚いて穴から出てきた虫を食べるという習性に似ていることからその名をつけたのである。


かくして、9月9日の夕暮れに勘助の進言した戦法が実行に移されるのであるが…


炊煙の多さを指摘する謙信
城内より立ち昇る炊煙



その戦法はすぐさま謙信によって見破られてしまったのであった。



謙信:「その方、海津城の様子に何か変化があるとは思わぬか?」

従臣:「はて? 何も変わらないように見受けられまするが…」

謙信:「よく見てみよ! 炊煙がいつもより多く立ち昇っておるではないか。あれは次なる軍事行動の前触れじゃ。山が動くぞ。
者共! 急ぎここを出立じゃ! よいか、決して物音一つ立てるでないぞ、静かに敵に感づかれないように山を降りるのじゃ!!」




夜の闇に紛れて河を渡る上杉軍

海津城から立ち上る炊煙がいつもよりも多いことで、信玄がいよいよ行動を開始したことを看破した謙信は、全軍に夜の闇にまぎれて山を降りるよう命じた。

無論、山には旗指物を立て、かがり火を焚いて、あたかも上杉軍がそのまま布陣しているように見せかけたのである。


「鞭声粛粛、夜河を過ぐ…」


の情景そのままに物音を立てないように千曲川を渡り、八幡原に下りてきたのであった。




一方、八幡原に布陣していた武田軍は朝霧が晴れてきたその眼前に上杉軍がいるのに仰天した。

そして9月10日、戦いの幕は切って落とされた。
上杉軍は車懸かりの陣で、対する武田軍は鶴翼の陣で応戦し、大変な乱戦となった。



そうした戦いの中、突然頭を白袈裟で包んだ武者が馬に乗って現れたかと思うと、本陣にいる信玄を目指して太刀で切りかかってきたのである。

信玄はとっさに軍配で防ぎ、傍らにいた信玄の旗本が武者の乗った馬の尻を槍で突き刺し、驚いた馬が走り去った為、辛くも命拾いした。

この時の武者こそが謙信であったという。


結局、謙信は信玄と決着をつけるつもりであったのが、あと一息というところで、果たすことが出来ず、無念であったに違いない。

この時の謙信の心情を詠った頼山陽の漢詩はつとに名高い。


鞭聲粛粛夜過河(べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる) 
暁見千兵擁大牙 (あかつきにみる、せんぺいたいがをようするを)
遺恨十年磨一剣 (いこんなり、じゅうねんいっけんをみがき)
流星光底逸長蛇 (りゅうせいこうてい、ちょうだをいっす)

後世の人々により語り継がれ、人口に膾炙するエピソードである。

ただ、この時の謙信は実は本人ではなく、影武者の荒川伊豆守なる者であったとも「上杉年譜」には記されているそうである。

しかしながら、その行人包みの武者がたとえ影武者であったとしても、それが信玄を初めとする武田方の将兵達に恐れを抱かせ、その心胆を寒からしめたことは間違いないであろう。




さて、妻女山に向かった武田別働隊は、妻女山がもぬけの殻であることに驚いた。

山上から下を見ると、すでに上杉・武田の間で激戦が繰り広げられておるではないか。

急いで山を降り、八幡原を目指してひた走る。

本隊に合流した別働隊が現れたことで戦況は変わった。

謙信もこれ以上の戦闘は不利とみて、善光寺に引き上げた。


そして、両者はそれぞれの陣地で勝利宣言をし、両軍は自国に引き上げていったのであった。


尚、この戦いでは

上杉軍の死者・3400余人、負傷者・6000余人

武田軍の死者・4600余人、負傷者・1万3000余人



であったという。

この数字がどこまで信用できたものかは分からないが、武田方では信玄の弟の典厩信繁、山本勘助晴幸、両角豊後守という武将級の者達が命を落としていることをみても、戦国史上に特筆される激しい合戦の一つであったことだけは間違いない。

千曲川の畔にある山本勘助の墓
典厩信繁の菩提寺・典厩寺