■上杉謙信傳 (両雄激突!川中島合戦…暫定版…) ◆決戦! 川中島合戦!!
世に名高い「川中島の合戦」はこの永禄4(1561)年の「第4回・八幡原の戦い」のことを云う場合が多い。 数々の伝説に彩られたこの合戦ではあるが、実のところ、この合戦のことを詳細に記した良質の史料はまだ見つかっておらず、真相は謎である。 この合戦に関する記事は上杉方の「上杉年譜」、武田方の「甲陽軍鑑」にしるされてはいるが、そのどちらも合戦から数十年後の江戸初期に執筆・編纂されたものであり、どの程度信用してよいものか分からないからである。 この合戦に対する文献的・実地的な検証は別な機会でするとして、ここではとりあえず合戦記に記された大まかな流れを見ていきたいと思う。
越後から持参してきた兵糧も長期にわたる布陣の為残り少なくなり、家臣たちは焦り、行動を起こすよう進言する者も現れるが、謙信は動じない。 一方、その事情は武田軍も同様であった。 信玄の軍師(はなはだ疑わしいが…)山本勘助晴幸は信玄に対し、「啄木鳥(きつつき)の戦法」を進言した。 その啄木鳥の戦法とは… 軍を本隊と別働隊の2つに分け、別働隊に妻女山を急襲させる。 襲われた上杉軍はその別働隊との戦いに勝っても負けても山を降りて平地に降りてくることは間違いないから、そこを本隊が一気に殲滅する… あたかもきつつきが虫のいる穴の反対側を突いて、驚いて穴から出てきた虫を食べるという習性に似ていることからその名をつけたのである。 かくして、9月9日の夕暮れに勘助の進言した戦法が実行に移されるのであるが…
その戦法はすぐさま謙信によって見破られてしまったのであった。 謙信:「その方、海津城の様子に何か変化があるとは思わぬか?」 従臣:「はて? 何も変わらないように見受けられまするが…」 謙信:「よく見てみよ! 炊煙がいつもより多く立ち昇っておるではないか。あれは次なる軍事行動の前触れじゃ。山が動くぞ。 者共! 急ぎここを出立じゃ! よいか、決して物音一つ立てるでないぞ、静かに敵に感づかれないように山を降りるのじゃ!!」
そうした戦いの中、突然頭を白袈裟で包んだ武者が馬に乗って現れたかと思うと、本陣にいる信玄を目指して太刀で切りかかってきたのである。 信玄はとっさに軍配で防ぎ、傍らにいた信玄の旗本が武者の乗った馬の尻を槍で突き刺し、驚いた馬が走り去った為、辛くも命拾いした。 この時の武者こそが謙信であったという。
さて、妻女山に向かった武田別働隊は、妻女山がもぬけの殻であることに驚いた。 山上から下を見ると、すでに上杉・武田の間で激戦が繰り広げられておるではないか。 急いで山を降り、八幡原を目指してひた走る。 本隊に合流した別働隊が現れたことで戦況は変わった。 謙信もこれ以上の戦闘は不利とみて、善光寺に引き上げた。 そして、両者はそれぞれの陣地で勝利宣言をし、両軍は自国に引き上げていったのであった。 尚、この戦いでは 上杉軍の死者・3400余人、負傷者・6000余人 武田軍の死者・4600余人、負傷者・1万3000余人 であったという。 この数字がどこまで信用できたものかは分からないが、武田方では信玄の弟の典厩信繁、山本勘助晴幸、両角豊後守という武将級の者達が命を落としていることをみても、戦国史上に特筆される激しい合戦の一つであったことだけは間違いない。
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