■謙信公伝(関東管領就任~能登制圧)



◆川中島の合戦(第4回・八幡原の合戦)

新関東管領となった謙信は厩橋城を経て永禄4(1561)年6月28日春日山城に帰り着くが、その途中で北条方の武蔵松山城を攻めた。

城主・上田朝直は城兵3000余人とともに城を守っており当初攻めあぐんだものの、謙信は策を用いて落城させた。

城主の上田氏は城を逃れ、その後に上杉憲勝を城主として守らせた。

かくして北条氏の勢力下に上杉方の拠点が出来たのであった。



だが、謙信が関東遠征で不在の間、何と北信濃では信玄が千曲川の東岸に海津城を築き、香坂弾正昌信を入れて守りに就かせていたのである。

これを捨て置くことは出来ぬと、8月14日1万8千の軍を率いて春日山を出立し川中島に向かった。

善光寺で5千の兵を後詰として残し、自らは残りの1万3千の兵を率いて妻女山に陣を敷いた。


一方、信玄も8月24日に川中島に到着、29日は海津城に入った。


ここに布陣すること数十日、そして9月10日に両軍の戦いの火蓋は切って落とされた。


この乱戦では両軍ともに夥しい死傷者が出たが、結局勝敗が決することはなかった。


これが戦国史上名高い「第4回川中島合戦(八幡原の合戦)」である。



◆関東遠征

さて、戦国最大級の激戦の一つである「川中島合戦(第4回・八幡原の戦い)」より、春日山に帰城すると、早くもその年の11月には関東に出陣し、上野国厩橋城に入り越年した。

以後、殆ど毎年のように各地に出陣している。

殆ど戦陣の中で過ごしていると云っても過言ではないくらいである。


特筆すべきなのが、謙信の関東遠征である。永禄12(1569)年閏5月に北条氏康と「越相同盟」により一時中断はしたものの、氏康の没後に同盟が破棄されるに及び、それは再開され、謙信の死まで続いたことである。


謙信の軍事行動の詳細は年表に掲載した通りであり、ここでは触れないことにする。



それにしても一体何が謙信をそこまで関東に駆り立てるのか?

これは何といっても自分を頼ってきた人間を助けるという彼自身の義侠心もあるが、関東管領に就任したことにより関東を静謐たらしめねばならぬという「重い制約」までも背負ってしまったからに他ならない。

謙信の運命は、京で将軍・義輝に関東管領就任の内定を頂いた時から遡ること数年前の、上杉憲政の猶子となった時に、もっと言えば越後に憲政が逃れてきてそれを匿った時より既に決していたのである。



だが、憲政に関東への出陣を催促されても謙信はすぐには動かなかった。

ようやく動き出すのは憲政の越後入りから8年後の永禄3(1560)年8月のことであった。


関東遠征は滑り出しは順調であった。

謙信が関東にやってくると、関東の諸将のうち、旧来の関東管領に仕えてきた太田氏や成田氏などの諸将がまず彼の元に集った。

そして反北条を自認する佐竹・里見といった諸将も彼の元に馳せ参じた。

謙信は反北条方の盟主となっていたのである。

そして謙信を恃むに足る人物とみるや、関東中の在地領主たちも馳せ参じたのである。


翌永禄4(1561)年3月には関東諸将を率いて小田原城を包囲し、閏3月に鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行なったのは前述した通りである。

だが、同年6月に謙信が帰国すると、北条方の反撃が始まる。

関東諸将のうちでも離反し、北条氏につくものが相次いだ。


彼等は謙信が関東にやってくれば上杉方に属し、去っていった後には離反して北条方に属するといったことを繰り返していたのである。

彼等はその時の強者に属することにより自己の安泰を図ったのであり、謙信も彼等とのいたちごっこに翻弄されることになるのである。


それでも謙信が出陣したら関東諸将はその政治的権威になびき、それは北条氏にとって脅威であり続けたのである。


北条氏も手をこまねいてばかりはいない。


北条氏は武田氏と今川氏との間に三国軍事同盟を結んでおり、北条氏は武田氏との共同戦線を張ったのである。


その一環として永禄4(1561)年11月からの武田氏の西上野侵攻が挙げられる。

謙信の関東進出によってその勢力圏を狭められた北条氏は武田氏と力を合わせて謙信に立ち向かったことにより、着実に勢力を回復させていった。


一方の謙信は厩橋領と沼田領を直轄領とし、北条(きたじょう)高広を厩橋城代として置いて関東進出の拠点とした。




◆関東経営の破綻と転換

だが、曲がりなりにも順調だった関東経営も破綻に瀕する。

永禄9(1566)年2月、謙信は下総高城氏と原氏の攻略をはかり、彼等の本拠である小金城と臼井城を攻撃した。

だが、関東中の諸将を動員しての攻撃にも関わらず、城を落とすことは出来なかったのである。

このことにより、謙信の政治的権威は失墜し、諸将の多くは北条氏に奔ったのである。


さらに上杉家の重臣である北条高広までもが背いて小田原北条氏に付き、佐竹氏も北条・武田氏と和睦するという有様である。


おかげで、関東における謙信の勢力範囲は直轄領である上野沼田領・武蔵羽生領、桐生佐野氏と房総里見氏の領地のみとなってしまったのである。


翌々年の永禄11(1568)年にあくまで北条氏への従属を拒否する佐竹・宇都宮・小山・梁田氏が再び謙信の傘下に入ったもののこの年には関東遠征をしていないところを見ると、彼自身も政治的影響力の衰えを充分に認識していたのであろう。


こうした中で再び謙信の勢力範囲を広げる機会が訪れた。

それは北条氏との同盟である。

北条氏と武田氏は天文末年から強固な同盟関係を維持してきたが、先の桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に討ち取られ、今川氏の衰退が目に余るようになったのを見た信玄は一方的に今川氏との手切れを宣言し、永禄11(1568)年12月に駿河に侵攻を開始したのである。

そこで北条氏としても今川氏の救援をする関係で信玄と手切れを宣言したのであり、この同盟はそうしたことの延長線上にあったのである。


謙信と北条氏康のとの同盟「越相同盟」は翌永禄12年の初めから交渉が行なわれ、6月には互いに血判起請文の交換が行なわれて正式に締結された。

両者の側からは互いに人質が交換された。

越後からは柿崎景家の嫡男・晴家が、相模からは氏康の七男・三郎がそれぞれ人質として相手側に送られた。

越後にやってきた三郎は謙信にことのほか可愛がられた。

自分の姪(景勝の妹)を娶わせ、自身の前名である「景虎」を名乗らせるなど、人質ではなく養子として待遇したあたり、相当に気に入ったのであろう。

それは北条氏との同盟が解消した後も何ら変ることはなかった。


この時の同盟により、謙信が関東管領であることを北条氏側が公式に認めた他、上野国、北武蔵が謙信の領有するところとなり、勢力は再び広がり、関東には平和が戻ってきたのである。


だが、いいことばかりでもなかった。


北条氏にあくまで対抗しようとする態度を崩さない佐竹・宇都宮・小山・佐野・梁田・里見氏らは謙信と袂を分かち、武田氏との同盟に走ったのである。

所詮、謙信と彼等はともに反北条という一点の利害関係でのみ繋がっていたのであり、それが無くなった後は互いに別な道を歩むほかなかったのである。


いつまでも続くかに思えた越相同盟も長くは続かなかった。


北条氏側が大幅に譲歩して謙信と同盟を結んだのは謙信からの軍事的な援助を期待していたからであったが、謙信は一向に動こうとしなかった。


武田氏との手切れに際して、北条氏康は今川氏真と組んで、甲斐・信州への塩止めを初めとする経済封鎖を行なった。

これは海を持たない内陸国の民にとって困惑ぶりは察するに余りある。

謙信はそれを快しとせず、「信玄と争うところは弓箭にある。米塩ではない」として越後から甲斐・信州に塩を送った。

いわゆる「敵に塩を送る」という美談はここから生まれたのだが、このことは北条側からみると同盟への裏切り行為に映ったことだろう。


こうした不信感からか、元亀2(1571)年の氏康の死を契機に、跡を継いだ氏政は謙信との同盟を破棄し、一転して武田氏との同盟を復活したのである。


そして謙信は再び関東へ兵を進めることになるのである。


だが、かつて反北条方として行動を共にした佐竹・宇都宮・里見氏らは以前ほど謙信の力を頼りにはせず、自分達の力で北条氏に立ち向かうようになったのである。


そして、天正5(1577)年には謙信に代わって佐竹氏が盟主となって北条氏に立ち向かうまでになったのである。


越相同盟以後、関東における謙信の政治的影響力は格段に衰えていたのである。


結局、関東において、謙信の死まで一貫して上杉氏が領有していたのは上野国厩橋領、沼田領のみであったのである。




◆越中・能登へ

一方、謙信を語る上で看過出来ない北陸方面での戦いはどうであったか。

そもそも越中へは謙信の祖父・能景の頃より出陣をしている。

これは越中に進出した加賀一向一揆に圧迫された越中守護代の一人・遊佐氏の援軍要請により永正3(1506)年に出陣したことに始まる。

越中には西部の砥波郡に遊佐氏、守護所であった放生津(ほうじょうづ・今の新湊市)を含む中部の射水・婦負(ねい)郡に神保氏、東部の新川郡に椎名氏がそれぞれ守護代に任ぜられ、分割統治されていたのである。

以来、祖父・父と3代に渡って越中に出兵してきたのであったが、越中には一向一揆のほかにも他に反上杉・長尾の態度を取る神保氏の一族もおり、また椎名氏もそれに乗じて度々反旗を翻したためにこれらを討つための出陣であったのである。

そして、これらの反上杉・長尾の勢力を陰で焚き付けていたのが甲斐の武田信玄なのであった。

謙信がその上洛に際して一向一揆勢力と和睦したのは先述したとおりであるが、これを全く反故にし彼等をして敵対に向かわせたのが信玄の調略なのであった。

謙信自身は永禄3(1560)年3月に越中に出陣し、神保良春を攻めたのに始まり、その生涯で出陣は10度を数える。


越中での戦況もまた度重なる遠征にも関わらずはかばかしいものではなく、特に一向一揆との戦いでは苦戦を強いられた。




こうした中で元亀3(1572)年11月、織田信長が謙信に同盟を求めてきた。

力を合わせて信玄と対抗しようというのである。

信長は信玄の力を恐れ、彼の存命中は表立って事を起こすことはなかったが、裏でこうした取引をしていたのである。

また、彼は謙信の武威も恐れ、出来うる限り事を荒立てないように努め、謙信に対しては南蛮マントは洛中洛外屏風などの贈り物を届けて機嫌を伺っていたのである。

謙信も信長の呼びかけに応じ、以来数年にわたって織田・上杉との間は同盟関係にあったのである。



◆巨星墜つ


翌天正元(1573)年4月、最大の好敵手とも云われた信玄が没した。

享年53歳、死因は肺結核であったとも云われている。

信玄を恐れていた信長はその死に小躍りして喜んだという。

だが、謙信は違った。

かつて、あれほどその行いや人間性を毛嫌いし、散々に苦しめられてきた信玄に対し、彼はその死を悼み、涙を流したという。

そしてその喪に服すために音曲を3日間停止したともいう。

これをあり得ないことだとする向きも一部あるが、「敵に塩を送る」行為になどからもあながちあり得ないことではないように思える。


また信玄はこのことに対し、心から感謝し、その意を謙信に伝え、自らの死に際しては勝頼に対し「自分の死後には謙信を頼れ」と遺言もしている。

本当は同じ武将として心の底では通じ合っていたに違いない。



◆越山併せ取り…


ところで、信玄の後ろ盾を失った越中の一向一揆は、加賀では信長の為に壊滅させられたこともあり、天正元(1573)年8月、なすすべもなく謙信の前に敗れ去った。

そして謙信はその余勢を駆って加賀・能登に進出する。


こうして信長と謙信は国境を接することとなったのである。

かつての遠交近攻策はもはや通用せず、その衝突は時間の問題となったのである。



折りしも石山の本願寺から援軍の依頼が舞い込んできたのは天正元(1573)年6月であった。

同志である越中の一揆と対戦している謙信に対して、信長との戦いで苦戦しているので力を貸して欲しいというのである。

これはよほど信長に追い詰められているということなのであろう。


天正4(1576)年、謙信は能登に進出し、七尾城を攻めた。

この頃、守護の畠山氏では前当主であった義隆が家臣に毒殺され、当時2歳の嫡子・春王丸(義春)が家督を継いでいた。

家臣たちは義春が幼いのをいいことに専横を極めていた。

また家中は親上杉派と親織田派に分かれ、政治は混乱の極みにあったのである。

謙信は親上杉派の遊佐続光らの要請により、先に畠山氏から人質として越後に送られていた畠山義春(9代畠山義綱の弟で後の上条政繁)を能登に送り届けることを大義名分とし、不義の輩を討つべく能登に向かったのである。


能登攻めは2度に及んだ。

同年11月に能登に進出し七尾城を取り囲んだが、翌天正5(1577)年4月には関東において北条氏の動きをみて一旦兵を引き春日山城に戻った。

そして同年閏7月に始まる城攻めの際に、七尾城内で悪疫が流行し、城主・義春も病死し、城内の遊佐続光らの内応により9月15日七尾城は開城した。



この落城に先立つ2日前の9月13日に七尾城外で詠んだ漢詩が以下である。



霜満軍営秋気清(霜軍営に満ち秋気清し)

数行過雁月三更(数行の過雁、月三更)

越山併取能州景(越山併せ取り能州の景)

遮莫家郷念遠征(あもあらばあれ、家郷遠征を念う)



これが真に謙信の作であるかは疑問視する向きもあるが、この時の謙信がこの漢詩で分かるというものである。


こうして、ついに越中と能登は謙信のものとなったのであった。



◆手取川の決戦

時間の問題とも思われていた信長との武力衝突は同年のこの戦いの直後に行なわれた。

かつて、あれほど謙信の武威を恐れ、必死に機嫌を取っていた信長であったが、親織田派の畠山家臣・長綱連の弟孝恩寺宗顓(のちの長連龍)にもたらされた七尾城が落城の危機にあるという報せを聞き、もはや謙信との武力衝突が避けられないことを悟らずには居られなかった。

だが、越前の柴田勝家の軍だけでは強敵である謙信の軍には敵わないと、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉らの率いる大軍を越前に送り込んだ。


総大将・柴田勝家の率いる織田軍は加賀に入って平定を進めるも、一揆が謙信の側となっているために容易には進軍出来ない。

じきに羽柴秀吉が柴田勝家と意見が合わず自分だけさっさと軍を引き上げてしまうのである。


これは色々に取りざたされているが、恐らく何が何でも能登に攻め込もうとする強硬派の柴田勝家と、加賀南部だけでもまず固めようとする穏健派の羽柴秀吉の意見の違いという説が有力視されている。


織田軍は一旦は手取川を渡って松任方面に進軍したものの、七尾城が既に落城したことを知って退却を始めた。



一方、織田軍の動きを知った謙信は3万の軍を率いて、松任方面に向かった。


織田軍は手取川の北に陣を敷き、迎撃する構えを取るも、形勢不利とみて9月23日の夜中に川を渡って退却を始めた。


そこに上杉軍が襲い掛かったのである。

夜中の追撃戦ということもあって織田方では千人余りの兵が討ち取られた。

さらに悪いことにはその頃大雨続きで川の水かさは増していたので多くの者が馬ごと流され溺死したという。


これが信長と謙信との最初で最後の合戦「手取川の合戦」である。



だが、この合戦の後で織田方をさらに追撃することはなく、能登七尾に戻り城を修築し、越後に引き上げたのである。