■謙信公伝(晩年) ◆僧として 彼が「謙信」という名を用いるようになったのは元亀元(1570)年頃、彼が41歳の時のことである。 法名を名乗るに際し、かねてから師事していた林泉寺7世・益翁宗謙(えきおうそうけん)より名の一字を頂いている。 そしてその4年後の天正2(1574)年、45歳の時に高野山無量寿院の阿闍梨・清胤(せいいん)を師として真言宗の礼式に則って剃髪し、「法印大和尚」に任ぜられている。 その2年後には清胤を越後に招き、真言密教の奥義を伝授し、「阿闍梨権大僧都」に任ぜられている。 若き日に抱いた出家への願望は、この時に実現したのであった。 ◆その最期 謙信は日頃から大酒豪であった。 これは米沢の上杉神社に伝わる「馬上杯」を見れば頷けよう。 だが、肴は殆ど食べず、梅干や塩、味噌などを舐めるだけで、あおる様な飲み方は謙信の健康を相当蝕んだに違いない。 合戦、それに国主・関東管領としての任務において抱く、抑えられない激情を酒で紛らわしたのであろうか。 天正6(1578)年1月、謙信は次なる関東遠征への檄を飛ばし、出陣の準備を着々と進めていたが、その最中の3月9日、突如厠で倒れた。 そして数日間昏睡状態になり、13日世を去った。 享年49歳。法名は不識院殿真光謙信。 彼の辞世の句といわれるものに次のものがある。 四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒 彼は昏睡状態のまま意識は戻らなかったのでこれが本当に謙信によるものかどうかは疑問ではある。 だが、謙信らしさを表す句として人口に膾炙するものとしてつとに有名である。 葬儀は春日山城内にある真言宗大乗寺の良海が導師となって執り行われた。 そしてその遺骸は漆で塗り固められた上に甲冑をつけて甕に密封され、林泉寺にある墓所に埋葬された。 しかし、後継者の上杉景勝の会津ついで米沢転封に際し、掘り起こされて各領国に持ち運ばれた。 そして江戸時代を通じて米沢城内の御廟所に安置されていた。 現在は市内の御廟所に安置されている。 |