■本庄城(村上市)

一般に江戸期の呼称から村上城の名で知られるが、ここでは鎌倉初期から景勝の会津転封までこの地を治めた本庄氏の居城ということで本庄城の名を使うことにする。
また、その形が臥せった牛にも見えることから【臥牛城】ともいう。

本庄氏は鎌倉初期に秩父行長・為長の兄弟が越後国瀬波郡(小泉庄)の地頭に任ぜられ、兄行長は本庄を領し、弟為長は色部を領してそれぞれの地名をとって姓としたのに始まる。

以来、彼らは揚北衆の一員として守護上杉氏や守護代長尾氏に反抗する態度をとりあたかも独立国のように振舞ってきた。

しかし謙信の代になり揚北衆たちもその配下となり、時の当主・本庄繁長もそれに従う。
その後の永禄11(1568)年5月甲斐の武田信玄に通じ謙信に反旗を翻すも、その居城である本庄城を謙信やその家臣団、また同族の色部らを初めとする揚北衆に包囲され降伏、帰参を認められて再びその配下となった。

だが、繁長は天正19(1591)年に庄内の不法領有を咎められて改易となり、春日元忠が城代、領地は大国但馬守の預かりということになってしまった。
以後城の手入れは充分になされていなかったようで城内はかなり荒れていたらしい。

慶長3(1598)年の景勝の会津転封により、越後は豊臣恩顧の大名たちの領国となるが、この城も村上義明9万石の領有となり近世的な築城法を取り入れ大々的に改装がなされた。
この時より村上城と呼ばれるようになったようである。

元和4(1618)年には村上氏に代わって堀直竒が10万石で入り、石垣を築き、城下町を整備した。
今見られるような城郭はこの時期に造られたものである。

以後、本多忠義、松平直矩、榊原政倫、本多忠孝、松平輝貞、間部詮房と交代し、内藤弌信が入り、以後8代130年にわたって内藤家の領有となり幕末を迎える。

だが、戊辰の役の際に旧幕軍についた村上藩は官軍の攻撃を受け炎上、現在は石垣しか残っていない。


交通:

周辺地図:以下を参照のこと(バナーをクリック)

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臥牛山遠景

中ノ門跡

一文字門跡
城跡への登り口
よく整備された通路

立派な石垣が…

三ノ丸跡

近世式築城法の粋を極
めたことが分かる城壁跡
渡り楼門跡

出櫓跡

埋門跡

門跡

本丸跡

本丸跡から見た
町並みと日本海
本丸跡から見た
町並み
天守台跡

本丸

門跡

小石垣門跡
御蔵屋敷通り

袋門跡