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■館主紹介(永禄11・1568~  )

◆氏名: 上杉憲哲(うえすぎ・のりてつ)

◆別名:定景、東犀川三四郎

◆通称:カゲトラマン、カラアゲマン、別府八湯温泉道名人等とも名乗る。

◆本姓:桓武平氏鎌倉氏流(自称)

◆官位:無位無官

◆戒名: そのような物はまだ御座りませぬが、頓死した場合の為に只今考え中(爆)。

◆墓所:某が戦い力尽きた場所が即ち墓所なり、墓標はありませぬ…

◆宗教:一応仏教徒(宗旨は真言宗高野山派)。

特定の宗派に偏らず八宗兼學を目指して居りまする。

◆生年:永禄11(1568)年8月27日生まれ
黒田長政殿、豊臣秀次殿と同じ年でござる。

◆没年:これから数十年後と思われる


◆血液型:AB型

◆身長:170cm(平成当時の武将としてはごく平均的な身長だという…爆)

◆体重:75kg前後

◆職業:武士




◆信条:懐に金無き時は懐寒くして体万事物事に慎重なり、懐に金有る時は心広くして体泰(やすらか)なり
     
     懐に小道具有る時は愛嬌失はず、懐に小道具無き時は御笑いを行ふ
      
     運は天気にあり、個性は鎧にあり、戦歴は足にあり 

     外るると思ひて賭ければ当たり、当てむと思ひて賭ければ必ず外るるものなり


◆嗜み:写真撮影、陶藝、温泉巡り、歴史探索


◆好きな酒:上善如水、越乃景虎、その他日本酒全般、麦酒、焼酎、葡萄酒…

◆酒の肴:基本的に「久”留米」なので何でも肴になる。

◆好きな食べ物:
拉麺、加哩、豚勝、唐揚、その他

◆それがしの自前鎧



◆鎧之概要(丸竹産業製)

兜:
鉢   黒塗り12間筋兜
しころ  黒塗板札紺赤素懸威し4段日根野しころ
前立   真鋳製三日月前立

鎧:
胴    黒塗紺糸胸取り威桶川胴具足
袖    黒塗板札紺赤威し丸袖6段
草摺   黒塗板札紺赤威し5段6間

小具足:
篭手   黒塗篠篭手上部筏
臑    黒塗り篠臑
佩楯    黒塗り筏佩楯

◆付属品:

陣羽織:日本刀剣愛好会

竹光:丸竹産業

梨地塗り大小模造刀:浅草寺近辺の店

黒塗り大小模造刀:浅草寺近辺の店



 ◆時代祭り出陣履歴:

 2002年4月 山梨県石和町川中島合戦絵巻
       8月 新潟県上越市謙信公祭
      10月 岐阜県兼山町蘭丸祭り

 2003年4月 山梨県石和町川中島合戦絵巻
       5月 静岡県三島市山中城祭り
       6月 愛知県豊明市桶狭間合戦祭り
       8月 新潟県上越市謙信公祭
       9月 千葉県大多喜町大多喜まつり
      10月 岐阜県兼山町蘭丸祭り
      11月 茨城県結城市結城祭り

 2004年4月 神奈川県横浜市小机城祭り
          群馬県甘楽町城下町小幡さくら祭り武者行列
          山梨県石和町川中島合戦絵巻
       5月 山形県米澤市上杉祭り
          東京都日野市ひの新撰組祭り(ゑせ隊士)
       8月 新潟県上越市謙信公祭
       9月 千葉県大多喜町大多喜祭り
      11月 埼玉県行田市忍城祭り
          茨城県結城市結城祭り
      12月 茨城県協和町小栗判官祭り

2005年 4月 群馬県甘楽町城下町小幡さくら祭り武者行列
          山梨県笛吹市(旧石和町)石和川中島合戦絵巻
          山梨県大和村ふるさと勝頼公まつり(ゑせ隊士)
       5月 千葉県佐倉市佐倉時代祭り(ゑせ隊士)
          山形県米澤市上杉祭り
          東京都日野市ひの新撰組祭り(ゑせ隊士)
       8月 新潟県上越市謙信公祭


2006年     出陣はなし


2007年 1月 宇佐八幡宮で鎧にて初詣

       4月 竹田にてプレ岡城まつり

      11月 大分市大野川合戦祭り

2008年 3月 長崎県雲仙市観櫻火宴

       4月 大分県竹田市岡城まつり
      11月 大分県大野川合戦祭り

2009年11月 大分県大野川合戦祭り
 

2010年     出陣はなし

2011年     出陣はたぶんなし…




      

◆温泉道関連履歴

2010年12月10日 別府八湯温泉道入門

2011年 1月 9日 九州温泉道入門

2011年 2月 9日 別府八湯温泉道第2462代名人(1巡目)

現在 2巡目7段


■館主所有装束一覧

それがしが時代祭りなどで着用する装束等を御紹介致しまする。


鎧直垂:
絹金襴紺地花模様。
各地の時代祭りで大将級の武者が着用する豪華な鎧直垂。汚すともったいないということで特別なイベントの時のみに着用。丸竹産業より購入。
白襦袢:
装束の下に着ける肌着であるが、夏の暑い時期は上は肌着のままで鎧を着けることもある。
丸竹産業より購入。
たっつけ袴:
もともとは職人や踊りの役者らが用いた、丈の短い袴に脚半を縫い付けたものであることからこの名があるらしい。
木綿製。浅草寺近辺の店より購入。
被り物各種:
左上は合戦の際に被る引立烏帽子、左下は鎌倉期以降の武士が好んで用いた侍烏帽子、右上は略式の懐烏帽子、右下は主に家老・代官級の上級武士が用いる陣笠。
左2つは丸竹産業、右2つは浅草近辺の店より購入。
陣羽織:
金襴ではない落ち着いた色合いの陣羽織で最近は殆どこちらを着用して出陣している。
大河「義経」バージョンの木綿地直垂:
深い緑色でそれがしも非常に気に入っており、気が向いたときに袖を通すことがある。
立烏帽子:
直垂と合わせて着用すると気分は源義経(爆)。



それがしの事跡は以下の史料に記載されておりまする。

■東犀川三四郎憲哲

永禄11・1568年?8月27日~平成27・2017年3月13日?

戦国時代・平成時代の武将・茶人・陶工。

東犀川上杉氏の祖。上杉憲哲とも称す。本名は一説に憲鉄とも。のち出家入道して豊州坊日倫(ほうしゅうぼう・にちりん)とも号す。

平成時代に書かれた「北越軍記外伝」ならびに「続・豊薩軍記」にその名が見える。


◆「北越軍記外伝」に見える三四郎に関する記述:

もとは桓武平氏の一族であった上杉謙信公の遠縁として永禄11(1568)年に越後で生まれ、謙信公の影武者のそのまた影武者を務め、長尾氏ならびに上杉氏を名乗ることを許され、上杉播磨守定景と名乗る。

もっとも、生年については異説もあり、永禄初年もしくは天文年間に遡るという意見もある。

その理由として、謙信公が没した年に定景はまだ10歳の児童だからというのである。

この辺の事情はよく分からない。

ともあれ、天正6(1578)年に謙信公が没したのちはその後継者たる景勝公に仕え、軍功を立てるも、関が原の合戦の直前に失踪。

ここで北越軍記外伝に書かれている定景の記述は途絶える。

真相は彼が戦から凱旋している時に、宇宙から飛んできた謎の火の玉に遭遇し、遭えなく落命してしまったのである。

その火の玉の正体は、N1568星雲からやってきた正義の宇宙人・カゲトラマンの乗っていた宇宙船であったのだ。

カゲトラマンは、宇宙関東管領の命を受け、地球に落ち延びる宇宙山賊を追っていたのだが、途中でエンジンの故障により、地球の日本・越後国の山林に不時着しようとしていて、誤って定景を死なせてしまったのである。

彼は深く悔やみ、彼に自らの命を与えて一心同体となることで、共に地球の平和を守ることを誓ったのであった。

しかし、地球で戦うという決意を固めたのもつかの間、カゲトラマンの故郷であるN1568星雲はシンゲンマンやウジヤスマンに脅かされていた。

宇宙関東管領も、その星を追われるという事態。

カゲトラマンは急遽星に戻り、敵たちを駆逐するとともに、宇宙関東管領の座に就任し、更なる戦いに身を投じなければならなくなってしまったのである。


………。


やがて、地球では400年の歳月が流れた。

定景やカゲトラマンの存在は地球ではすっかり忘れ去られてしまっていた。

何よりも重大なのは彼には平成の世に必要な戸籍というものがなかったことである。

思案しているカゲトラマンの前に、謎の老人が姿を現し、言った。

江戸に在住の上杉氏支族に、三四郎なる定景によく似た者がいるが、その者が実は前日に交通事故にあい、頓死してしまっているというのである。

無論急なことなので家族はもちろん周りの誰も知るものはいない。

老人は、定景に対し言った。

これを機に三四郎の戸籍を乗っ取り、成りすまして生活すればよかろうというのである。

なぜ、この老人は自分の困惑を知っているのだろうか?

一体何者だろうか?とカゲトラマンはいぶかしんだ。

老人は、それを見透かしたように、フォフォフォ…と笑い、わしは毘沙門天じゃよ、と言ってふっと姿を消した。

老人のアドバイスの通りに定景は平成人として三四郎の戸籍を入手し、三四郎になりすましてその時代の者として生活することになったのである。

平成11年頃から再び外伝に記録が現れる。

この頃には往年の記憶を取り戻したものと思われる。

平時は会社員、有事の際には武装し、関東近辺の戦場にて武功をあげる。

だが、平成19(2007)年、故あって身柄は豊後国大分郡に配流された。

北越軍記外伝における三四郎の記述はここで途絶える。


◆「続豊薩軍記」における三四郎の記述:


豊後に流された三四郎は、豊前国田川郡の犀川荘の東半分の名目的な領主とされ、領地の名を取ってその名を東犀川三四郎憲哲と改めた。

豊後国での三四郎は流人とはいえ、あくまでも軍役を負担する武士であり、有事の際には武装して戦場に駆けつける一領具足の士として現在に至る。


また、豊後に流されて失意のどん底にあった三四郎は出家入道して豊州坊日倫と号し、再隆山璃遍寺(りべんじ)なる一寺を建立し、その開基住職となった。



◆参考文献:北越軍記外伝
続・豊薩軍記