■仙桃院(?~慶長14・1609)



長尾為景の娘として生まれる。母は謙信と同じく栖吉の長尾顕吉(一説に房景とも)の娘虎御前である。生年は不明で謙信より2歳、もしくは6歳年長といわれる。

また実名は不詳。

坂戸城主長尾政景に嫁ぎ2男2女をもうけた。長男義景は早世し次男顕景は謙信の養子となりのちに景勝と名乗る。

2人の娘は謙信のもう2人の養子である上条政繁と上杉景虎にそれぞれ嫁ぐ。

政景との結婚は政略ともいわれるが、半ばは彼女がみずから進んで輿入れしたのだと思われるふしがある。

大層賢い夫人であり謙信や景勝にも少なからぬ影響を及ぼしたと考えられている。

永禄7(1564)年夫政景は謙信の軍師である宇佐美定満が居城を訪れた際、近くの野尻池にて船を浮かべて宴会を行った。

しかし船が転覆して政景と定満は溺死してしまった。

このことについて謙信の黒幕説が当時からあり、謙信が腹心の宇佐美に命じて眼の上の瘤であった政景を殺させたと言われていた。

それを聞いた仙桃院は当然のことながら謙信に対して怒った。

謙信はその誤解を解くために宇佐美一族を上杉家から追放し、顕景を養子にすることで仙桃院の怒りを解かなければならなかった。

それほどまでに彼女は上杉家中において強い影響力を持っていたのである。

顕景とともに仙桃院一家も春日山城に引き取られ、謙信の庇護を受けることとなるのである。

また彼女の賢夫人ぶりは直江兼続を見出したことでも知られている。

当時薪奉行という低い身分の武士であった樋口兼豊(一説には上田長尾家家老職)の長男与六兼続は幼少の時から利発であったが、彼の非凡さを見て取って顕景の近習としたのだという。

果たして彼は後年に見られるような活躍をすることになるのである。

天正6(1578)年謙信の死とともに起こったお館の乱では身内同士の争いに直面しなければならないという悲運に見舞われた。

彼女の娘の一人は一方の養子景虎に嫁いでおり、一子道満丸をもうけているからだ。

結局景虎夫妻と道満丸は死に追いやられるのであるが、仙桃院の胸の内はいかばかりであったろう。

その後は景勝と行動をともにし、会津、米沢と移り住み、慶長14(1609)年2月15日、米沢にて死去した。86歳だったという。