■宇久(五島)氏の起こり 五島列島を支配した五島氏は元は列島の最北端を根拠とした宇久氏に端を発するが、この宇久氏が一体どのような素性なのかについては平家説と源氏説とがあり、定かではないようである。 伝説によると平家盛公が壇ノ浦で平家が敗れた後に宇久島の火焚崎に上陸したのが発端と云われている。 (地名の由来は家盛公が長い船旅で海風に当たっていて冷えた体を焚き火で暖を取ったことによるとのこと) このことは家盛に従って宇久島に渡った藤原久道の手記 「蔵否輯録(ぞうひしゅうろく)」 にて以下のように詳細に述べられている。
自分は縁者を頼って旅費を集めて旅立ちの準備をしていたが、それもようやく整い、文治2(1186)年の11月15日に主従15名、手人4名を従えて難波(大坂)に出、ここで従者を二手に分け、家盛公自身は「菊亭」と名を変えて難波港を出たのであった。
平戸に到着した家盛公一行は丁重に取り扱われ、平戸にて屋敷や領地も宛がわれた。 だが、ここが安住の地でないと考えた家盛公は渡辺糺に相談の上、五島列島の最北端・宇久島に移住することにし、1月26日宇久島に向けて平戸を出航した。 一行の船は折からの時化でしばらくは風任せの状態であったが、やがて、山の灯を頼りに船を進めると船の乗り入れに適した浦があったので、そこから上陸し、焚き火で体を暖めた。 上陸から3日後の29日には家盛公一行は村人に迎えられて山本(宇久島平郷)に移り、在地の土豪15名の要請により、領主となり、山本に館を建てたのであった。 その後10月中旬頃までには中通島、福江島などの土豪の中にも臣従を約するものが多くなってきた。 翌文治4(1188)年8月15日、平家盛公は名を「宇久次郎有(たもつ)」と改め、源頼朝の惣追討使(そうついとうし)の祝儀のために自分・藤原久道を11月12日に鎌倉に向けて出発させ、12月23日に祝儀言上と祝儀物の献上を行い、同月26日に頼朝に対面し、本領安堵の上、従五位下肥前守(じゅごいげ・ひぜんのかみ)に任ぜられ、名実共に五島の領主となったのである。
例えば、家盛と同じく池禅尼の子である頼盛は、頼朝の件以来、異母兄の清盛に冷遇されていたらしく、木曽義仲の軍勢により平家一門が都落ちを余儀なくされた際に平家の赤旗を捨てて都に戻り、他の一門とは袂を分かっており、平家滅亡の際にも頼朝により官位も本領もそのまま安堵されてもいる。 頼朝にとって池禅尼は命の恩人であり、その子供であれば無下にするわけにはいかなかったのであろう。 頼盛の子孫はその後も武家として続くこととなる。 また、「平家に有らずんば人に非ず」と放言した平時忠も処刑されることなく能登に流され、その地で寓居し、子孫は格式ある豪農(上時国家・下時国家)として続き、現在に至っている。 それにしても前述の家盛夭折についての疑問は残る。 一方、平家宇久氏に対し、源氏説も唱えられている。 こちらは松浦一族のある者が宇久島に渡りその後勢力を得たものだとする説、もしくは武田一族のある者が松浦経由で宇久島にやってきたものだという説との二通りがある。 五島氏が幕府に提出した家譜、また江戸末期の貞方堅吉の「公譜別録」や「五島家大系譜記録」では源姓武田氏の流れとされており、江戸期の五島氏の家紋も武田氏流の花菱紋を用いている。 この武田氏説はともかくとしても、松浦一族というのは家盛の子で2代目・扇(あおぎ)から17代・囲(かこむ)に至るまでの一字名を見ても(松浦氏は嵯峨源氏系を称しており、その系統は大部分が一字名を名乗っている)最も自然で蓋然性が高そうである。 果たしていずれが正しいのかはさておき、現在地元では平家説の方が支持されているようであり、それがしとしても歴史浪漫溢れる平家説の方を支持することとし、基本的にはその線で論を進めていく方針である。 参考資料:「五島史と民俗」平山徳一著、「海鳴りの五島史」郡家真一著・国書刊行会 |