■宇久氏の勢力拡大 初代家盛が鎌倉にいる頼朝に使者を送り、任官の上、所領安堵の御墨付きを得たことは前述した。 以下では家盛から15代までの歴代の事蹟をみていきたいと思う。 ◆初代・家盛(いえもり・1125~1190) 文治3(1187)年、宇久島火焚崎より上陸し、島の土着豪族たちの請願により領主になった。 家盛は来島してから3年後の建久元(1190)年に66歳で没した。 ◆2代・扇(あおぎ・1173~1212) 家盛には男子がなかったので次女・扇(あおぎ)の婿養子として源盛を迎えた。 この時代、五島列島は各地に豪族が割拠していた。 各地の一揆(いっき)と呼ばれる土豪連合体がそれである。 先述の「蔵否輯録(ぞうひしゅうろく)」には五島列島が家盛の時代から統一されていたように書かれているが、彼の後何代かに渡って軍事行動を起こさなければならなかったところを見ると、それは至極名目的なものであったろうと思われる。 まず扇の時代の正治2(1200)年に有川・下有川・今里の一揆を平定した。 ◆3代・太(ふとし・1194~1233) ついで、3代・太(ふとし・後に「義貞」と改名)の時代の承久2(1220)年に大値賀(久賀や奈留島か?)を平定した。 ◆4代・進(すすむ・1214~1250) 進(すすむ)の代には五島全島及び唐津・下志佐・早岐・相之浦・平戸領大島に勢力を伸ばした。 ◆5代・競(きおい・1234~1282) さらに5代・競(きおい)の代の文永6(1269)年には中通一揆を平定した。 尚、競は元寇の役でも大活躍し、特に弘安4(1281)年には平戸に大挙して押し寄せてきた元軍を迎え撃ち、多大な功績があったという。 ◆6代・披(ひらく・1254~1317) 6代・披(ひらく)の代の正応5(1292)年には大値賀・中通島の土豪に法掟書を示達し、これに従わない者を討ち、同年には奈留家頼及び今里の土豪たちの反乱を鎮めた。 この頃には宇久氏の武名も鎌倉に達し、北条氏よりしばしば軍の催促状もあったという。 ◆7代・実(みのる・1271~1351) 7代・実(みのる)の代の建武3(1336)年、足利尊氏が肥後の菊池氏と戦った時には名代として青方高直を出陣させている。 ◆8代・覚(さとる・1331~1388) 8代・覚(さとる)の代には福江島に進出し、同島の鬼宿(岐宿)に城を築き、福江島支配の拠点としたが、覚自身は普段は宇久島の城山の館に住み、有事の際には籠城して防ぐようにしていた。 しかし、宇久島はあまりにも北により過ぎているということで、後の弘和3(1383)年に宇久島を引き上げて鬼宿を本拠とした。 覚が福江に進出して来た当時、小値賀島には平戸松浦氏、有川には馬場氏と江氏(共に宇久氏支族)、青方には青方氏、奈留島には奈留氏、日之島・若松には藤原氏、椛島には桑原氏、富江には田尾氏、玉之浦には玉之浦氏(宇久氏支族)、岐宿には貞方氏、大浜には大浜氏らの豪族が割拠していた。 彼らはさしたる抵抗もせず宇久氏の傘下に入り、かくして覚の代に五島全土が支配下に入ったのである。 ◆9代・勝(かつ・1370~1423) 覚に嫡子が居なかったので(一説に庶子はいたというのであるが、彼らは一体どうなったのだろう?)、阿野対馬守祥林(しょうりん)なる者の一子・松熊丸を養子として迎えた。 阿野氏は京都の出であり、阿野中務なる者が元寇の頃宇久島にやってきて宇久氏に仕えて有力家臣となっており、対馬守祥林はその子である。 鬼宿に移住して5年経った嘉慶2(1388)年に覚が没すると、松熊丸は名を「勝(かつ)」と改め、宇久家の家督を継いだ。 同年、勝は鬼宿から深江(福江)に移住し、辰の口城を築いて本拠とした。 宗教上の政策としては、福江に宇久家の菩提寺として清浄寺を、祈願所として明星院を建立した。 また、家中より有能の士を抜擢するなどした。 ところで、勝の家督相続に対し、家中に反対する者も多かった。 松熊丸は宇久家の血を全くひいていないからである。 戦国時代の下克上の世にあっては、越後の長尾景虎が上杉憲政より上杉家の家督と関東管領職を譲られたことのように、家臣が主家に養子に入るというようなこともさほど珍しくないのであるが、血筋や家格が重んじられるこの時代にあってはまさしく異例のことであったろう。 こうした家臣達の反対に対して、宇久家の重臣、藤原・簗瀬。大久保・平田らは養子縁組をした際の「父子起請文」を盾にとり、あくまでも勝を宇久家の正当な後継者として盛り立てていく姿勢をとり続けたのである。 そして応永20(1413)年の一揆の会合によって、勝を党主として仰ぐことが決定されたのである。 この時、署名した在地領主は26名、同日に宇久・有川・青方で一揆がなされている。 そしてこの時の契諾は「宇久浦中御契諾条々之事」として、先の「父子起請文」とともに「青方文書」の中に残されている。 勝が党主として推されるに至ったのは、父子起請文の存在もさることながら、彼自身の一連の業績によるところも大きかったに違いない。 ◆10代・基(もとい・1389~1448) 8代・覚と9代・勝の活躍により五島一円は大方宇久氏の支配下に収まったが、小値賀其の他は依然として平戸松浦氏のものとなっており、其の他何かにつけて松浦氏の干渉を受けていた。 そこで基(もとい)は平戸方の悪縁を断ち切るべく、永享5(1433)年に平戸近辺の領主達と謀って平戸に攻め入り、松浦勝を勝尾岳の白孤山城に戦死せしめたのである。 こうして一時は平戸方の束縛から離れたかに見えたのだが、勝の甥である松浦義は失地を回復し、逆に宇久島まで征服されてしまった。 この後、11代・儀(よし・1404~1448)、12代・定(さだむ・1421~1482)、13代・勝(かつ・1438~1501)、14代・幡(たつる・1461~1513)、15代・覚(さとる・1472~1507)と数代は平穏のうちに過ぎていった。 参考資料:「五島史と民俗」平山徳一著、「海鳴りの五島史」郡家真一著・国書刊行会 |