■戦国時代と宇久氏 ◆玉之浦納の乱 一方、京やその周囲では国人(在地領主や地侍など)一揆や一向一揆が頻発し、地方でも守護代や新興の在地領主達が力をつけてくるなど、世間は騒がしくなってきた。 そして応仁元(1467)年に起こった応仁の乱での京の騒乱をきっかけに本格的な戦国時代の幕開けとなった。 幕府の威光は地に墜ち、守護大名達も幕府によらずに独自に領国経営をするようになってきた。 だが、この騒乱の前後から下克上の風潮は強まってきて、従来の守護大名を初めとした領主達のかなりの部分が新興勢力によって没落し、取って代わられた。 近くは佐賀の守護大名・少弐氏が在地の龍造寺氏に取って代わられ、遠くは越後の上杉氏が守護代の長尾氏に実権を奪われてしまうなど、数え上げればきりがない程である。 そうした風潮に我が五島も無縁ではなかったのである。 永正4(1507)年正月、15代・覚が没したのちにその嫡男の囲(かこむ・16代・1489~1507)が若干19歳で宇久氏の当主となった。 このことにかねてから不満をもっていた、一族の玉之浦納(おさむ)は同志を募ってその年の2月24日に反旗を翻し、居城の辰ノ口城に夜襲を仕掛けた。 そもそも玉之浦氏は3代・太の子で進の弟が別家を立てて福江の玉之浦に土着したものの子孫で、れっきとした宇久氏の分家である。 しかし、宇久氏の本家の血統は8代・覚の代で断絶しており、9代・勝以降の当主は全く血筋を引いていないのである。 このことに、家盛以来の血を引く玉之浦氏はかねてから不満を持っていた。 しかも父祖の代からは交易によって財を成したことにより、その勢力は本家である宇久氏と伯仲するほどであったからなお更であった。 このことを危惧していたものか、時の玉之浦氏当主である納には、囲の妹が内室として嫁がされており、改めて一族として懐柔しようとした節がある。 だが、こうした宇久本家の懐柔策にも関わらず反旗を翻した納の心中はどのようなものであったのか… この状況に囲の妹は兄に付くべきか夫に付くべきか去就に迷い、時の清浄寺住職に相談を持ちかけたという。 すると、嫁しては夫に従うべきだと住職に諭され、夫に付いて行く事を決心したという。 夜討ちをかけられた城中は混乱に陥ったが、時の家老・大久保日向守家次が総大将となって軍勢を建て直して叛徒に対して反撃を開始し、一時は玉之浦方の全滅したかに見えた。 それもつかの間、玉之浦方は再度味方を募り、25日には再び城を包囲した。 この時宇久方の劣勢は如何ともしがたく、もはや城を持ちこたえることが出来ないと悟った囲は大久保を召し出して、奥方と当時3歳の嫡男・三郎を連れて城を落ち延びるよう厳命した。 そして自らも城を出てわずかな近習らとともに富江の黒島に落ち延びたものの、そこも叛徒に包囲され、囲主従はことごとく自刃して果てたのであった。 一方、大久保は三郎と奥方を奉じ夜陰にまぎれて城を脱出し、小値賀を経て奥方の実家のある平戸に向かったのである。 三郎一行が平戸に到着した時、時の平戸領主で奥方の父でもある松浦弘定は時ならぬ来訪に驚いたことであったろう。 松浦家中では即刻、玉之浦氏を討つべしとの論もでたものの、いまだ時にあらずとして、糸屋宮内を馳走役として外孫である三郎を手元に置いてその成長を待つことにしたのである。 それから14年、三郎は17歳の若武者に成長した。 元服して名も宇久盛定と改めていた。 盛定の「盛」の一字は恐らく宇久氏の祖・家盛から、「定」の一字は祖父の弘定からもらったものであろう。 おりしも、五島の領主の一人で玉之浦氏に不満を持っていた奈留某の内通により、納が戦勝におごって領民や在地領主たちの反感を買っていて納を討つ絶好の機会であるとの報せを受けた。 大永元(1521)年3月、盛定は伯父の興信より兵100人をつけてもらい平戸を出立した。 盛定の挙兵の報せに旧家臣ら135名が合流し、4月1日宇久島を出て福江島を目指した。 福江の手前にきたところで、二手に分かれて一隊は岐宿西津より上陸し、陸路で大宝を目指し進軍した。 そしてもう一隊は盛定自らが指揮を執り、海路で大宝に向かい、陸海両方から挟み撃ちにする作戦を取った。 さらに本来玉之浦氏にとって味方であるはずの玉之浦の郷士(四十八人衆)までが納を見限って宇久方に付いたため、玉之浦方は総崩れになった。 この時の戦いで宇久方によって居館も放火にあり、納は残党を率いて嵯峨島に立て籠もり抵抗を続けたが、武運も尽きた納主従は自刃して果てたのであった。 奇しくも17年前の囲と同じ死に様であったことは因果応報の理を表しているのであろうか… これにより、前後17年続いた玉之浦納の乱は終息を迎えたのであった。 尚、盛定の叔母でもある納の内室は、甥を頼ることなく、あくまで夫である納の後を追ったが、貝津の浜まで来たところで夫に置いて行かれた事を知り、自刃して果てたのであった。 この時、大久保日向は内室の身柄を確保し盛定の元へ届けようと、内室の後を追ったが、その途中で玉之浦氏の残党に襲われ、その長男とともに落命し念願であった宇久氏の再興を見ることは出来なかったのである。 ◆17代・盛定(もりさだ・1505~1549) 玉之浦氏との戦いに勝利したことで、晴れて17代当主になった盛定は十分に論功行賞を行った。 その後、戦火に包まれて落城した辰ノ口城を再興せず、大永7(1527)年に福江川に面した高台に江川城を築いてそこに移った。 そして後世に宇久氏中興の祖と云われるような善政を敷いたが、惜しむべきかな、天文18(1549)年に43歳の若さで没したのであった。 ◆18代・純定(すみさだ・1525~1586) 盛定の没後、嫡男である純定が跡を継いだ天文18(1549)年という年はザビエルが日本にキリスト教を伝えた年でもあった。 このことに不思議な因縁を覚えずには居られない。 なぜなら彼が五島にキリスト教を根付かせる一因となったからである。 純定の嫡男の民部は難病に侵されており、純定は当時日本に続々とやってきていた宣教師達が未知の医学や科学技術にも長けていることを知り、嫡男のために彼らを五島に招くことにしたのである。 永禄9(1566)年1月、当時大村領内にいたトルレス神父はまず日本人医師ディエゴを五島に派遣し、次にルイス・アルメイダとロレンソの2人を送った。 彼らが五島に到着した時は当の民部は既に没していたが、純定はキリスト教の布教を許すことで、彼らが大村に戻るのを引き止めた。 純定自身は洗礼を受けることはなかったが、家臣や領民の多くが洗礼を受け、純定の次男・純堯夫婦と大浜氏を継いでいた三男・玄雅も入信したのであった。 純定は一旦は家督を純堯に譲り、隠居をするが、彼が父に先立って天正7(1579)年に没すると再び当主の座に就き、天正14(1586)年に没するまで続いた。 ◆19代・純堯(すみたか・1547~1579) 純堯はアルメイダ神父の後任としてやってきたモンチ神父によって夫人(教名:ドナ・マリア)とともに洗礼を受け、ドン・ルイスと称した。 彼は側室として兄・民部の妻で大津の市(大津八幡の巫女)を迎えていたが、受洗の際に離別しているものの、彼女の連れ子であった純玄はそのまま嫡男として手元に置いている。 だが、夫人の父で一族の宇久盛重は徹底的なキリシタン嫌いであった。 盛重は娘夫婦の受洗に怒り、18回にわたって棄教を迫ったが、純堯は信仰を捨てるくらいなら領主の座を捨てる、と全く聞き入れなかったという。 この信仰のために官位への叙任はなく、宇久五島氏歴代の中で、純粋な意味でのキリシタン大名は彼一人であった。 天正7(1579)年、父・純定に先立って没する。 ◆20代・純玄(すみはる・1562~1594) 純定の没後、純玄と玄雅との間で相続争いが起こった。 また純玄は義母ドナ・マリアの父・盛重が後見人であったことからその影響もあり、キリシタンの迫害を始めた。 一方、玄雅は先述の如く洗礼を受けて敬虔なキリシタンとなっているため、この相続争いは五島における宗教戦争の様相を呈するようになってきた。 玄雅はキリシタン武士200人を率いて教会の庭に要塞を築いて立て籠もり、純玄方も江川城の守りを固くして対峙し、1年余りに渡って内戦状態が続いた。 結局、強い後ろ盾を持たない玄雅は内戦に敗れて長崎の五島町に亡命した。 この時の相続争いに勝利した純玄は晴れて20代当主の座に就き、盛重の後見の元に国政を担った。 だが、この頃中央では織田信長の後継者として豊臣秀吉が覇権を確立し、着々と天下平定への兵を出していた時期であった。 この情勢をみた純玄は天正15(1587)年、豊後府内にいる秀吉の下に参じて臣従を誓い、所領の安堵を保障され近世大名の第一歩を踏み出したのである。 天正18(1590)年、小田原の北条氏を降したことで晴れて天下が平定されたが、秀吉は何を思ったか、今度は朝鮮や明への出兵を目論んだのである。 文禄元(1592)年、秀吉は全国の諸大名に朝鮮への出兵を命じた。 そして純玄率いる五島勢は小西行長の率いる一番隊に属し、大浜玄雅を士大将に総勢700人とともに名護屋を出立した(文禄の役)。 この時に純玄は従来の宇久氏を五島氏に改めている。 しかし、文禄3(1594)年7月28日、天然痘の為にかの地の陣中にて没した。 享年33歳であった。 ◆21代・玄雅(はるまさ・1548~1612) 玄雅は純定の三男として生まれ、初めは福江の有力な領主であった大浜氏を継いで大浜孫右衛門と称した。 その後五島に宣教師が招かれると兄・純堯夫婦と共に洗礼を受け教名をルイスと称した(兄・純堯と同じ洗礼名なので、玄雅の方は「小ルイス」もしくは「ルイス大浜」とも呼ばれる)。 彼は敬虔なキリシタンであり、一族の盛重や純玄らのキリシタン迫害に対して真っ向から立ち向かうも、結局は敗退し長崎への亡命を余儀なくされる。 玄雅はここに起臥すること7年余であったが、生計が立たずに、島津義久の取り成しによって何とか五島に戻ることが出来たのであった。 朝鮮出兵はその矢先の出来事であった。 かの地では純玄の下で士大将として各地で転戦し手柄を立てた。 甥の純玄が陣中で病没したのを受けて、家中より次期当主に推されるが、先の純玄との経緯もあり、当初はそれを固辞する。 だが、五島家家中には他に後継者たるべき人物がいないこともあり、後継者を自分の子ではなく一族の宇久盛長の嫡男の盛利を据える事を条件として引き受ける。 このことは当時の五島家中の勢力の均衡を考慮したものか。 玄雅は先代の跡を受けて朝鮮での戦いの指揮をとり、慶長元(1596)年に明・朝鮮と和議が結ばれたことで五島勢も一旦領国に引き上げた。 だが、翌慶長2(1597)年には再度従軍している(慶長の役)。 この時の戦いで日本軍は苦戦を余儀なくされ、特に蔚山(ウルサン)では加藤清正ら日本軍の守る蔚山城を明軍に包囲され苦境に陥っていた。 玄雅は五島水軍を率いて背後から明軍を急襲しその包囲網を打開するなどの功績をあげ、これにより豊臣姓を与えられたという。 このような勝利の局面もいくつかあるものの、全体としては日本軍は劣勢であり、膠着状態が続いた。 現地で厭戦気分の漂う中、翌慶長3年8月には秀吉が逝去したことで、日本軍は朝鮮から撤退し、五島勢も領国に引き上げた。 慶長5(1600)年9月に起こった関が原の戦いに先立ち、徳川家康ら東軍の陣営と石田三成ら西軍の陣営はそれぞれ全国の諸大名に参陣を呼びかけたが、五島にも豊臣秀頼母子の命と称して西軍に参陣するよう呼びかけがあった。 玄雅は西軍に付くつもりで、五島勢を率いて上方に向かっていたが、長門国赤間が関(下関)まで来たところで、同じく西軍として参陣しようと行動を共にしていた大村喜明・松浦鎮信・有馬晴信らと相談した。 話し合いは中々まとまらなかったが、この時に大村喜明が、「この戦いは秀頼の命と称してはいるが、実は三成らの心中から出たものに違いない。騙されてなろうか」と発言し、彼らは先の朝鮮の役での処遇で石田や小西らに含むところもあったので、大村の意見に皆同意し、それぞれ領国に引き帰すことにしたのである。 このことで、戦後の諸大名に対する仕置きでは彼らは一様に旧領安堵となり、五島・大村・松浦氏は明治維新まで旧領を保持し、有馬氏は途中他国に国替えとなったものの同じく維新まで大名として残ることになったのである。 さて、先述の如く熱心なキリシタンであり、秀吉時代に禁教令が出されても信仰を捨てることなく、それどころか宣教師を招聘し、彼らを城中に留めおくなどしていた。 ところが、家康に駿府に呼ばれた後に棄教しているのである。 かつて己が信仰のために甥を初めとする一族と戦い、信仰を守り抜いた彼の心中にどのような変化があったのだろうか。 恐らく領国を捨てることは出来ず苦渋の選択をしたものの内心忸怩たる思いであったろう。 この時の彼の心中を思わずにはいられない。 慶長17(1612)年3月8日、玄雅は富江で65歳の生涯を終えたのである。 |