■近世初期の五島氏とその治下での事件 ◆22代・盛利(もりとし・1593~1642) 盛利は文禄元(1593)年に五島氏一門盛長の嫡男として生まれ、玄雅の後を受けて22代当主となったが、時は徳川氏による幕藩体制が確立されていく時期にあたり、その治世においては後世に特筆すべき数々の事件があった。 ここではその各々について見ていきたい。 ●福江直り 盛利は慶長17(1612)年、養父玄雅の死後家督を相続し22代当主となった。 襲封してまず彼が手がけたのは「福江直り」であった。 これは、五島各地でそれぞれ独自に所領を持ち治めている在地領主たちを従来の領地から引き離して強制的に福江城下に住まわせ、彼らの土地を一元的に五島氏が支配するというものである。 そして彼らにはその従来の知行高に応じて邸宅と農民を分け与えたのである。 だが、これは後述する大坂の陣や居城・江川城の火災、そして大浜主水事件などによりなかなか進まなかったが、寛永11(1634)年までには総数約170名の士分の者を福江に集めることに成功した。 その後の寛永16(1639)年、盛利は家臣団を主客の二坐に分けた。 この時決定した客坐の筆頭は松尾七郎右衛門、奈留利右衛門、江三郎左衛門、有川善内、大久保勘左衛門、 主坐のそれは七里善吉、糸柳権之丞、木場半兵衛、貞方勝右衛門であった。 これにより、初代・家盛以来の家臣である五人衆(藤原・大久保、簗瀬、木場、平田)、戦国以来の上三組、下三組らの中枢を占めていた譜代家臣の多くが、その地位から脱落し、代わって五島氏の縁戚の諸家や新参の一部が新たに台頭することとなったのである。 ●大坂の陣 盛利の襲封から間もない慶長19(1614)年の冬の大坂冬の陣では藩主自らは出陣せず、家臣の青方弥五右衛門と松尾八左兵衛らを派遣するに留まったが、翌年の大坂夏の陣では盛利自身も出陣することにし、松浦・大村氏らと共に海路を東に向かっていたが、彼らの到着を待たずして大坂城は落城し、実際に戦いに参加することは出来なかった。 盛利らは大坂に布陣する家康に拝謁し戦勝祝いを述べたが、遅参の件については風雨の為に船が遅れたとしてお咎めはなかった。 ●石田陣屋の構築 慶長17(1612)年8月15日、17代・盛定以来居城としてきた江川城が炎上した。 この直後、盛利は今の福江港のある石田浜に仮の陣屋を構築し、居所とした。 そしてそれまで深江と呼ばれていたこの地を「福江」と改称した。 以来、工事を続け、陣屋が完成したのは寛永15(1638)年のことであった。 だが、これはあくまで政庁としての居館であり、本格的な居城とすることは五島藩の格式から許されなかった。 以後歴代の藩主達は居城への改築を申請してきたが、最終的にその許可が下りたのは江戸時代も終わりに近い嘉永2(1849)年8月のことであり、最終的に居城としての威容を整えたのは文久3(1863)年のことであった。 ●大浜主水(もんど)事件(御家騒動) 先代・玄雅が一時期島内で大きな勢力を持っていた旧族・大浜氏の跡目を継いでいたことは先述した通りであるが、彼が藩主の座に就くと跡目を相続する者はなくなり、断絶を余儀なくされていた。 本来大浜氏を継ぐべき、玄雅の長男・玄宗(はるむね)は早くに没していたからであった。 名族・大浜氏の断絶を惜しみ、烏山(かやま)与四右衛門正継の次男である主水正重(もんど・まさしげ)を亡子の養子としたのが大浜主水である。 であるから、系図の上では主水は玄雅の義理の孫ということになる。 この人物が元和5(1619)年に江戸に出て、藩主・盛利を主君に相応しからぬ者として将軍・秀忠に直訴したのである。 彼の挙げた盛利の非道はいくつかあるが、中でも「本来盛利の跡を継ぐべき先君の子をないがしろにし、自らの嫡男・盛次を立てようとしている」という一件が注目に値する。 主水の言い分はこうである。 盛利は先述の通り、先代の玄雅の格別の取り計らいにより、本来の家督継承者ではないにも関わらず家督を継いだのである。 それなのに、本来の家督継承者であり先代・玄雅公の遺児でもある次男・千鶴丸君と三男・孫三郎君の2人を差し置いて、自分の嫡子・孫次郎に家督を継がせようというのは怪しからん、と。 この他にも盛利の非道とされる行為は縷々あげつらわれている。 いくつか挙げてみよう。 主水の妻であった孝子(盛利の妹)を夫婦仲は睦まじかったにも関わらず離縁させて、自身のお気に入りの七里玄元に与えたこと。 盛利が自身の正室・末子まで離縁し、京都西本願寺坊官・七里玄通の娘・梅子を後妻に迎えたこと。 これらの盛利の恣意に基づく、人倫に背かんばかりの行動により、家中のかなりの部分が主水側に同情的であり、その中には先の孝子ばかりか盛利の生母・芳春までが含まれていたのには驚く。 やがて、主水は江戸詰めを命ぜられて江戸に赴いたが、その後機会をみて将軍・秀忠に上訴状を提出して受理された。 元和5(1619)年5月27日のことである。 御目安の事 一 此度実子と称して江戸証人(幕府御用役)に送りたるは、領主盛利の娘に非ずして、或る僧侶の捨児を拾い養育したるを、此度公儀を偽り実子として出仕せしめたる事 一 盛利は五島領主たるべき家系ならざるを、前代玄雅の厚意により家臣の子を養嗣子として統を継ぎたるにも拘わらずその恩を忘却して、玄雅の実娘たる正室末子の方を離別したる程の非道を働くものたる事 一 盛利は将軍家に対し二心を有しいたる事は、去る大坂冬の陣に使者をして書状二通を持たせ、徳川、豊臣いずれか両軍の旗色如何により、その勝ち目の向きへこれを進達すべく申付け、勝戦の関東へ上書せるものなる事 一 盛利は、極悪非道の家老松尾九郎右衛門に不義の儀を許し、或は骨肉の実子を捨て又は先君の子を押込むるなど、実に言語同断の領主たること。 一 五島家の正統は先代の実子千鶴丸にして、盛利の嫡子盛次に非ざる事 上記の目安が提出されたとの報せに藩当局は驚き、同年7月9日に幕府に対し目安返答書を提出した。 当時、直訴は禁物であったのだが、前記の目安が真実を伝えていると判断した幕閣は、これを単なる藩の御家騒動と捨て置く訳にもいかなかったのか、翌元和6(1620)年、盛利と主水の双方は評定所に呼び出され、公の場で裁判が行なわれることとなった。 裁判の過程においては主水側に有利に動き、諸々の吟味の後、元和7(1621)年に、盛利に対し千鶴丸を養子とすべし、との裁可が下りたのである。 こうして、家臣の藩主上訴事件に始まるこの騒動は主水側の勝利に終わったかに見えた。 だが、盛利側はこの報復として主水側についていた浦九郎兵衛、下有川弥七左衛門らを斬首し、その他の者も処断したのである。 幕府の手前、さすがに主水には危害が及ぶことはなかったが、元和9(1623)年、身の危険を感じた主水と千鶴丸兄弟は江戸に去り、そのままそこに住んだ。 だが、芳春の屋敷内に住んでいた千鶴丸は寛永4(1627)年6月6日に江戸屋敷の花見の宴の後急死する。 何者かによる毒殺とされている。 また、弟・孫三郎も江戸証人となっていたが、寛永14(1637)年に原因不明の死を遂げた。 こうして、盛利の後は彼の血統により家督が相続されることとなったのである。 主水はこの兄弟の死因に不審を抱き、その後も幕府に訴えて争った。 だが、寛文5(1665)年に主水が江戸で病没し、その子・彦右衛門がその遺志を継いでその後も上訴をやめなかった。 その数十年後、元禄11(1698)年幕府の仲介により、藩に帰参し26代・盛佳(もりよし)に仕える事となった。 彦右衛門は蔵米208石を給されて藩に仕え、その子孫は上級武士として明治維新を迎えることとなる。 かくして元和5(1619)年より元禄11(1698)年まで実に84年間もの長きに渡って続いた御家騒動は最終的に終結したのであった。 ●島原の乱 寛永14(1637)年10月、キリシタンを中心とした農民の一揆に始まった島原の乱は瞬く間に島原・天草全土を巻き込んだ大規模な反乱へと発展し、その年の11月には有馬氏時代の古城であった原城に立て籠もった。 藩主・盛利も家老・青方善助に120名の部下をつけて出陣させた。 これには領主の松倉・寺沢氏らの手に負えず、周辺の諸大名や幕府軍の援軍を以ってしても容易に鎮圧することが出来なかった。 ことに原城は難攻不落の堅城であり、戦況はしばらく膠着状態が続いた。 年が明けた1月3日、総指揮官の松平信綱は兵糧攻めの態勢で城の周りを取り囲み、城内の兵糧の尽きるのを待った。 さしもの反乱軍も勢力が衰えてきたところで、同月27日、幕府軍は総攻撃を開始したのである。 この総攻撃に五島勢も加わったが、彼らが現地に到着したのはちょうど総攻撃の当日だった。 兵糧や弾が尽きた城内になだれ込んだ幕府軍の猛攻により、城の大部分を落とすことが出来たが、本丸などの一部を落とすことが出来ないまま夜を迎えた。 翌日早朝より攻撃は再開され、午前10時には本丸も陥落、大将の天草四郎も討死し、乱は終結した。 一揆側の生存者は全て皆殺しに遭い、その数は1万8千にのぼるといわれている。 五島勢も、大将の青方善助は6人を討ち取り1人を生け捕り、平田利兵衛は城中に一番乗りを果たしたという功名を挙げたが、軍令に背き抜け駆けをしたとして恩賞は無かった。 このことに不満を持った両人は憤然として五島を去ったが、この時に盛利は「本藩これにより定まれり」と喜んだという。 青方は先の大浜主水事件の時に忠誠を尽くし、その上今回の戦いで功名を立てたにも関わらずこのような扱いを受けたのである。 その後青方は平戸藩に仕え(その後帰参)、平田も佐賀藩に仕えた。 以上の如く、藩政初期の数々の問題を乗り切った盛利は藩主の座にあること31年、寛永19(1642)年7月19日に50歳で病没したのであった。 |