■近世以降の五島氏



22代・盛利の代に五島藩の藩政の基礎が形作られたのは先にも述べた。

以下では23代・盛次以降の歴代藩主とその主な業績について述べていくことで、五島の歴史を眺めていきたいと思う。




◆23代・盛次(もりつぐ・1618~1655)

父・盛利が寛永19(1642)年7月19日に50歳で病没すると、その跡を受けて24歳で藩主となる。

だが、彼は病弱だったようで、在任14年、38歳の若さで宝暦元(1751)年10月9日に病没した。

彼以後、数代は短命な藩主が続くことになる。




◆24代・盛勝(もりかつ・1645~1678)

盛次の跡を受けて藩主の座に就いた嫡男・万吉は11歳と幼少だったため、藩内に不安を抱く声が高かった。

その為、当初は叔父・盛清の補佐の下で藩政を行なう。

万治3(1660)年、15歳で元服し盛勝と名を改めると、盛清を後見役から罷免したが、彼のそれまでの功績に報いて1万5000石のうちで5分の1にあたる3000石を分け与え、分家させた。

だが、成人の後も多病の上、精神を患うなど、自ら政治をみることは極めて困難な状況であった。

延宝6(1678)年、34歳の若さで江戸白金谷戸の屋敷で病没。




◆富江領初代・盛清(もりきよ・1628~1679)

盛利の次男・盛昭は兄と同じく病弱で江戸住まいであり、五島に赴くことはなかったが、三男・盛清は五島の生まれで幼少の頃から聡明であり、長じて江戸に遊学する。

剛毅にして英才の誉れも高く、藩の家中の間では心を寄せる者も多かった盛清は、それまでの部屋住み500石の身分では満足せず、知己の旗本を通じて直参旗本となる運動を行なっていた。

こうした内情を鑑みた幕府は、盛勝の叔父・盛清が後見人を命じ藩政に当たらせた。

盛清は異国防衛方における大功に加え、それまでの藩政の弊風を改革し、民政において刷新をはかるという輝かしい実績を残したが、家老たちの口出しを許さず独裁に近い政治を行なった。

為に、次第に家中に反感を持つ者も多くなっていき、盛清の独断専行を怒った白浜九右衛門に抜刀して迫られるという事件も起こったくらいである(九右衛門はのちに赤島に流罪)。

万治3(1660)年、後見役を免ぜられた時に3000石を分知され、直参旗本として幕府に仕えることとなった。

時に盛清28歳のことである。

旗本とはいっても交代寄合(大名と同様に参勤交代をする旗本)であり、格式は大名に準ずるものであった。

盛清は富江に陣屋を設け、そこを中心に領内の政治を行なったが、彼の家臣団は本藩の家中の次男以下が中心であり、またその所領も富江周辺の他は飛び地も多く、その上境界も複雑であったので、のちのち色々な問題を引き起こすこととなる。

盛清は延宝7(1679)年10月16日に52歳で没した。

そして、富江領は幕末まで連綿と続いていくこととなるのである。




◆25代・盛暢(もりのぶ・1662~1691)

延宝7(1679)年、父・盛勝の跡を受けて16歳で家督相続、従五位下佐渡守に任ぜられる。

この頃から中国船やオランダ船などの異国船が五島近海に出没し、その度に五島全土は不穏な空気に包まれた。

中国(清)やオランダとは長崎のみ窓口として交易を行なっていたが、その他での交易は「抜け荷(密貿易)」として固く禁じていた。

(もっとも対馬藩を仲介とした朝鮮との貿易、薩摩藩が琉球王国を通じての清との貿易、松前藩がアイヌを介しての韃靼貿易は特例として認められていた)

こうした抜け荷を目論む船が幕府の目の届きにくい離島を狙って、清やオランダなどの国の船が漂着と称してやってきていたとする説も挙げられている。

また、五島列島は長崎と諸外国を行き交う海上交通の要衝であり、日本と国交のないポルトガルなどの国の船が現れることもあった。

こうした異国船に対し、五島藩は西国の諸藩と同様、異国警備番役を命ぜられ、異国船を拿捕した際には長崎奉行に引き渡すという役割も担わなければならなかったのである。


その他、京都より移民誘致。

また貞享元(1684)年、山田茂兵衛を有川に招き、網取法での捕鯨を始めた。

鯨からは食用として肉を、燃料や肥料として油が取れるほか、骨やその他をも捨てるところなく利用することが出来、「鯨一頭が獲れれば七浦が潤う」と云われたくらいであった。

この捕鯨業が幕末に至るまで五島藩の台所を潤したことは云うまでもないことである。


だが、彼の就任期間は12年と短く、元禄4(1691)年6月24日、江戸屋敷にて30歳で病没した。




◆26代・盛佳(もりよし・1686~1734)

父・盛暢の跡を受けて元禄2(1689)年家督を相続し、藩主に就任する。

元禄11(1698)年、大浜事件の首謀者・主水の子・彦右衛門が帰参し、事件が最終的に終結に至った。

享保6(1721)年「五島家系譜」を整理する。

撰者は高峯十之進と貞方佐七、この時に源姓五島家系譜が作られたものか。

享保13(1728)年、43歳で隠居。

享保19(1734)年、49歳で病没。




◆27代・盛道(もりみち・1711~1780)

享保13(1728)年、父・盛佳が隠居したのを受けて18歳で藩主に就任する。

彼の就任した頃は西日本各地にイナゴが大発生し、飢饉に見舞われていた。

五島領内も例外ではなく、領内の餓死者も多かったので幕府からの御救米を受けるほどであったという。

彼の治世で特筆されるのは宝暦11(1761)年に始まった「三年奉公の制」である。

これは領内の百姓・町人の娘のうち2度も離婚により実家に出戻ってきた者を3年間無償で家中の屋敷で働かせるというものである。

この悪制は2年後の宝暦13(1763)年に改悪され、以後領内では百姓・町人の娘のうちで長女以下が15歳になると家中の屋敷で半奴隷的に働かされることとなったのである。

しかもその奉公のうちで不調法があった場合には一生結婚出来ないということもあったのである。

この悪制は明治初年の版籍奉還まで100年以上も続いたのであった。

明和7年(1770)年、60歳で隠居。

安永9(1780)年70歳で没。




◆28代・盛運(もりゆき・1753~1809)

父・盛道の隠居を受けて明和7(1770)年18歳で藩主に就任する。

育英館を興し、文武を奨励する。大村藩に移民要請。

文化6(1809)年没。




◆29代・盛繁(もりしげ・1791~1865)

父・盛運の跡を受けて、文化6(1809)年19歳で藩主就任。

40歳未満に禁酒を命ず。

天保元(1830)年、40歳で隠居。

慶応元(1865)年、75歳で没。




◆30代・盛成(もりあきら・1816~1889)

天保元(1830)年、父・盛繁の隠居を受けて14歳で藩主に就任。

武芸を興し石田城を築城。

安政5(1858)年、42歳で隠居。

明治維新後の明治22(1889)年、73歳で没。




◆31代・盛徳(もりのり・1840~1875)

安政5(1858)年、父・盛成の隠居を受け、18歳で藩主に就任する。

折りしもこの次期は尊皇攘夷の嵐が吹き荒れていた。

こうした中で文久3(1863)年、盛徳はいち早く朝廷に建白書を奉呈し、勤皇の意を表明した。幕末の激動期において、官軍に参加を表明。

慶応4(1868)年の戊辰戦争では、官軍に付き、兵を上洛させて市中の警備に努めた。

やがて、明治維新を迎えると、新政府は分家の富江領に対し、本家に合流するよう命ぜられた。

此れに対し、富江領では大規模な反対運動が起きた。


明治2(1869)年版籍奉還により、盛徳は藩知事に任ぜられる。

そして明治4(1871)年の廃藩置県により福江藩は福江県となり(同年12月には長崎県に編入)盛徳は藩知事を免ぜられる。

翌5(1872)年には福江城の敷地も政府に接収されその後民間に払い下げられてしまった。

(後に持ち金で城地を買い戻し、現在もその一部が五島家の屋敷地となっている)

そして盛徳は所蔵の道具類の多くを売り払ってしまったのである。

明治8(1875)年、父に先立って35歳で没。




◆32代・盛主(もりぬし・1868~1893)

父・盛徳の没後、明治9(1876)年に8歳で家督を相続し32代当主となる。

子爵を拝命するが、明治23(1893)年に25歳の若さで没する。




◆33代・盛光(もりみつ・1872~1923)

越後新発田藩11代・溝口直溥(なおひろ)の子(12代・直正を兄とする)として生まれる。

後に子のなかった盛主の養子となり、その没後の明治23(1893)年、21歳で家督を相続し33代当主となる。

のち子爵。

盛主と盛光とは東京において知己であったようで、その縁で養子縁組をしたものか。

明治33(1900)年、石田城本丸跡に五島中学校(後の県立五島高校)を創立、また明治41(1908)年、福江女児実業学校(五島高女)を創立するなど、五島における教育の発展に多大な貢献をした。

大正12(1923)年51歳で没。




◆34代・盛輝(もりてる・1904~1945)

大正12(1923)年、父・盛光の跡を受けて家督を相続し34代当主になる。

子爵を拝命。長崎市内に滞在中に原爆で被爆、一命を取り留めたもののその後の9月2日に病没。

行年41歳であった。

その後長らく夫人の英子氏が戦後直後から近年に至るまで家を守ってこられたという。




◆現当主・35代・典昭氏

先代・盛輝夫人・英子氏の養子となり現当主であられる。

五島市内に御在住し、五島市観光協会の事務局長として在職されている。