■五島の城跡
◆佐世保市宇久町
城ヶ岳城
◆五島市岐宿地区
岐宿城
◆五島市福江地区
辰ノ口城 江川城 福江城
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◆城ヶ岳城(佐世保市宇久町平郷)
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概略:
宇久島に上陸した宇久家の祖・家盛は平郷内で、城ヶ岳の麓の山本の地に館を構え、以後8代・覚に至るまでここを拠点として五島一円を支配してきた。
そして有事の際に立て籠もる為に城ヶ岳の頂上に城砦を築き、非常の際に備えた。
麓の館と山城とが対になっている中世の城郭の特徴を備えている。
築城年代は明らかではないが、鎌倉末期から南北朝期にかけて築城されたのではないかと云われている。
8代・覚は永徳3(1383)年に福江島の岐宿に本拠を移したが、これは完全に宇久島を引き払ったわけではないようである。
覚はその後も度々宇久島のこの城に戻っていたといわれ、次の9代・勝も文明3(1471)年当時まだ宇久に住んでいたという記録もあるので、両島を行ったり来たりしていたのであろう。
また、既に廃城となっていた江戸期にも二の郭に遠見番所が設けられるなど後々まで活用されていたようである。
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地図:

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現況:
2006年8月に訪れた時は時間の関係上、二の郭を探索するのみに留まり、本丸である一の郭に行くことは出来なかった。
一の郭に関しては次回の探索の後に述べるとして、まずは二の郭の現況を見ていきたいと思う。
城ヶ岳の山頂には石塁が残っており、かつての城砦の面影を残している。
また、仏像を安置する望楼も残っているが、その形は朝鮮半島に多く見られ、長崎県下では類のない蝸牛型の望楼であり、正直この遺構が本当に宇久氏が最初に築いたものかどうか疑問に思ってしまう。朝鮮からの渡来人の手によるものかどうか今後研究する余地がありそうである。
さて、一と二の郭の間にある広場からは六島や野崎島、寺島、小値賀島はもちろんのこと、中通島までも見渡せ、非常に気持ちが良い。
二の郭内を探索した後、石垣に沿った山道が麓まで続いているので、それを伝って山を降りていく。
30分ほど降りていくと麓の山本神社の裏手に出た。
宇久氏の館は恐らく山本神社の近辺にあったのではないかと思われるが、そうすると、山道は館と山城とを繋ぐメインルートか?
尚、館の遺構はいまだ見つかっていない。

広場からの眺望
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電波塔施設の
脇に石垣が…
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二の郭への道筋
にも石垣が…
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謎の蝸牛型望楼
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望楼の入り口
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内部には神像が…
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内部に祭られて
いる仏像群
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山本神社に至る
道筋の石塁
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交通:
宇久平港フェリーターミナルから徒歩約3時間
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◆岐宿城(五島市岐宿町岐宿郷)
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概略:
永徳3(1383)年に宇久島から福江島に進出した8代・覚が最初に福江島における拠点としたのが岐宿であり、城ヶ岳の頂上に要害として築城された。
ただ、正確な築城年代については前述の永徳3年の説と宇久氏が移住した後の応永20(1413)年以降との説があり、定かではない。
宇久島での時と同じく、平素は麓の館に住み、有事の際に山城に立て籠もった。
8代・覚以降、17代・盛定に至るまでの福江島における宇久氏の本拠地であった。
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地図:

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現況:
頂上には電波塔が建てられており、その上の展望台で下界の景色を見渡すことができ、非常に爽快であった。
資料では本丸跡、木戸跡、出曲輪跡、溜池、石塁、空堀などが発見されたと記載されていたので、期待して見に行ったのであるが、山頂からは遺跡遺跡らしきものは何も見つけることが出来なかった。
ただ、山頂から見渡したもう一つの山の頂きに馬蹄状の何やら怪しい窪みがあるのを発見したので、探索に向かうも、雑草が生い茂っていて検分することが出来なかった。

山頂から街の
中心を望む
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眼下に広がる
美しい島々
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山の頂きにある謎の
馬蹄状の窪み
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交通:
岐宿町の中心から徒歩で約2時間
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◆辰ノ口城(五島市上大津町)
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概略:
福江島に進出した宇久氏が岐宿からさらに深江(福江)に進出し、住吉神社前にこの城を築いたのは嘉慶2(1388)年の頃と伝えられている(9代・勝の治世)。
この城は深江の地を治めるための支城であったのだろうか。
その後大永元(1521)年に玉之浦氏を討った17代・盛定の時期に岐宿から深江の江川に本拠を移すまで、この地における宇久氏の拠点となった。
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地図:

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現況:
福江の市街地から外れ、山に登っていく途中にその城跡はある。
当時の遺構は何も残っておらず、城の所在を示す石碑だけが辛うじて当時この地に城があったことを偲ばせてくれるに過ぎない。
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交通:
福江港フェリーターミナルより徒歩15分
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◆江川城(五島市江川町)
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概略:
宇久島から福江島に本拠を移した宇久氏は初め岐宿に本拠を構えたが、その後さらに、現在の福江の地にその拠点を移し、17代宇久盛定の代の大永元(1521)年、江川(福江川)を臨む高台に築城した。
以後、18代純定、19代純堯、20代純玄、21代玄雅、22代盛利の6代の居城として繁栄するも、慶長19(1614)年の火災によって全焼してしまい、その後再建を許可されることなく廃城となった。
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地図:

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現況:
城の本丸であった場所には五島第一ホテルが建っておりそのすぐ脇に石碑が建っている。その一帯は高台であり、そのすぐ下には福江川が流れており、要害であったことが分かる。
しかし、城地の全ては繁華街となっており、遺構は何も残っていない。
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交通:
福江港フェリーターミナルより徒歩10分
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◆福江城(五島市福江町)
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概略:
別名・石田城ともいう。
慶長19(1614)年の江川城の焼失後、五島氏は幕府に対して新城の築城許可を申請するも許可されず、やむなく深江の石田浜に陣屋を建造し、ここを藩庁として城下町が形成された。
この時の陣屋の完成の時に従来の地名の深江は「福江」と改められた。
だが、五島の地は辺境の地で、度々異国船が出没することもあり、海防の為もあり堅固な城は不可欠であったにもかかわらず長らく築城の許可が降りず、江戸期を通じて外国の襲撃におびえながら過ごさねばならなかった。
築城の許可が降りたのは幕末のペリー来航後の嘉永2(1849)年のことであり、15年にわたる工事の末、文久3(1863)年に完成した。
近世の城郭としては最も新しい城の一つである。
だが、折角の新城も5年後に明治維新を迎え、明治5(1872)年に城は陸軍省の管轄となって城門と塀の他は解体されてしまい、その役目を終えたのである。
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地図:

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現況:
城門と塀、石垣、水堀が当時のまま残っている。城内は本丸が県立五島高校の敷地となっている他、五島氏邸宅(現在も御当主の方が御住まいである)や庭園、天守を模した資料館や図書館、城山神社等が建っている。
全体的に現在も当時の縄張りの様子を見て取ることが出来る。
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交通:
福江港フェリーターミナルより徒歩約5分
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