■五島の寺社教会
◆五島市(福江地区)
仏寺: 清浄寺 大円寺 明星院
神社: 城山神社
道教廟: 明人堂
キリスト教会: 堂崎天主堂
◆五島市(岐宿地区)
仏寺: 金福寺
神社: 巖立神社
キリスト教会: 水之浦教会 楠原教会
◆五島市(三井楽地区)
神社: 岩嶽神社
◆新上五島町(青方地区)
キリスト教会: 大曽教会
◆小値賀町(野崎島)
神社: 神島神社
◆佐世保市(宇久島)
仏寺: 東光寺 毘沙門寺
神社: 神島神社 山本神社 宇久島神社
|
|
◆清浄寺
|
概略:
鎮南山清浄寺と号す曹洞宗の寺院で本尊は釈迦如来。
元中7(1390)年、9代宇久勝によって孤山林翁を開山として創建され宇久氏の菩提寺と定められたという。
境内には宇久氏歴代の当主のうち、9代・勝、10代・基、11代・儀、12代・定、13代・勝、14代・幡、15代・覚、19代・純堯の墓所がある。
それにしても9代から15代までの当主はまだよいとして、何故にキリシタンであるはずの19代・純堯の墓所があるのだろうか?
恐らく没後当初はキリシタンの儀式に則って南蛮寺に埋葬されたものの、禁教によってこの寺に改葬されたものか。
それはさておいて話はさかのぼるが、15代・覚の没後、嫡男の囲が跡をついで間もない永正4年(1507)の玉之浦納の乱の時のことである
納の妻は大いに悩み、兄である囲に付くべきか、それとも夫である納に付くべきかを時の清浄寺住職に相談を持ちかけた。
その時に住職は夫である納に従うことを諭したというのである。
この為に清浄寺は玉之浦氏に内通したとの嫌疑を受けて宇久氏の菩提寺としての地位を失い一時は衰退を余儀なくされたが、後に再興され、宝暦5(1755)年の寺社祠辻堂知行付では寺領10石余となっている。
他に松尾氏らの墓所もある。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆大円寺
|
概略:
港の方から見て福江川左岸にある曹洞宗の古刹であり、広嶽山大円寺と称する。
本尊は釈迦如来。
応永10(1403)年、9代・宇久勝が僧・寿峰を開山として松月庵を建立したのに始まる。
その後一時衰退するが、大永元(1521)年に17代・宇久盛定がこの庵を再興させ、清浄寺に代わってこの寺を菩提寺と定め、寺号を大円寺と改めさせた。
そして勝以下の宇久家当主らの墓所をことごとくこの寺に移した。
江戸期には長門国の大寧寺を本寺とする五島における曹洞宗の本山となり24箇寺を統率した。
寛永年間には寺領80石余(寛永14・1637年の福江領崎山領寺水帳による)、宝暦年間には寺領80石余、本尊供養分8石余、盛利供養分10石余、御影堂12石余など都合111石余(宝暦5・1755年の寺社祠辻堂知行付による)。
門前には寺の格式を表す赤橋が架けられており、また近くには水神を祭る水神社があり、その下を流れている福江川には火消しをする河童の銅像が建てられている。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆明星院
|
概略:
大円寺から福江川を遡っていると右岸にある高野山真言宗の古刹で宝珠山明星院吉祥寺と称する。
本尊は虚空蔵菩薩。
大同元(806)年に唐から帰途途中の空海が立ち寄って参籠し、彼が出家得度の時以来深い因縁のある虚空蔵菩薩を安置する霊場と定めたのに始まる。
その後、この寺で虚空蔵菩薩聞持法を修した際に明星太子が現れたことにより明星庵と号し、永徳2(1382)年に空海ゆかりのこの遺跡を訪れた明海により明星院と改められたという。
さらに応永2(1395)年頃に9代・宇久勝がこの寺を宇久家祈願所と定めたことにより以後の歴代当主により崇敬を受けて大いに栄えた。
元禄年間には寺領100石(元禄2・1689年の明星院支配下寺院帳による)、末寺20箇寺を統率した。
宝暦年間には寺領80石(宝暦5・1755年の寺社祠辻堂知行付による)。
現存の本堂は安永7(1778)年に再建されたもので、五島最古の木造建築である。
その格天井には藩の御用絵師で狩野派の大坪永章の手による花鳥画が描かれており、国・県指定文化財となっている。
また、秘仏である金銅薬師如来立像は飛鳥時代の作と伝えられ、九州最古であり、国指定文化財となっている
その他、平安後期から室町時代にかけての仏像も多数蔵している。
|
地図:
|
交通:
|
入館料:
1名に付き300円(お布施)
|
開館時間:
9時~12時、13時~17時
|
休館日:
お盆前後、年末年始、毎週火曜日
|
問合せ先:
0959-72-2218
|
|
|
◆城山神社
|
概略:
もと宇久島の曹洞宗東光寺の境内に祭られていた城山宮(弘和元・1381年、8代・宇久覚によって創建)を文政7(1824)年、第代・盛繁が福江城中(当時は陣屋)に遷座し、社殿を建立した。
祭神は保食神のほか、宇久初代・家盛、5代・競、20代・純玄。
大正7(1919)年には現在地に移転。
例祭日は10月15日。 |
地図:
|
交通:
|
|
|
◆明人堂
|
概略:
天文9(1540)年、深江(福江)にやってきて通商を求めた明の貿易商人・王直(一般には倭寇と呼ばれた海賊の頭目として知られているが、それは彼の実像ではない)に対して時の当主・宇久盛定は今の唐人町である江川城下のこの地に居住地を与え交易を許した。
明人堂は居住地に住む明人たちが航海の安全を祈願するために建立したものである。
近くには彼ら明人たちが使った六角井戸も残されている。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆堂崎天主堂
|
概略:
奥浦湾の入り口にあるカトリックの天主堂。
奥浦は五島にキリスト教が伝来した16世紀半ばからその信仰の中心地であったが、江戸時代に入ってからは禁教令により迫害が激化し、この地からキリシタンは姿を消した。
その後寛政年間(1789~1801)に大村藩領の外海から隠れキリシタン達がこの地にも移住し、非合法ながら信仰を続けていた。
やがて明治維新の後、新政府による信徒迫害がなされ、信徒達は厳しい拷問を耐え忍ばなくてはならなかった。
こうしたキリシタンに対する迫害が欧米列強の非難を呼び、それにより明治6(1873)年禁教令は撤回された。
明治12(1879)年、マルマン神父によりこの地に木造の教会堂が建てられた。
現在の赤レンガ・ゴシック様式の天主堂は明治41(1908)年、ペルー神父によって建立された五島最古の洋風建築であり、資材は遠くイタリアからも運び込まれたという。
昭和49(1974)年、県の有形文化財に指定。
天主堂内部には隠れキリシタン時代の資料も展示されており、第一日曜日にはミサも行なわれている。
また、前庭にはこの地ゆかりのマルマン・ペルー両神父の銅像、長崎で殉教した二十六聖人の一人・ヨハネ五島の像、マリア像、説教をするアルメイダのレリーフも建てられている。
|
地図:
|
交通:
|
入館料:
大人・300円、中高生・150円
子供・100円。(20名以上は割引)
|
開館時間:
11月11日~3月20日: 9時~16時
3月21日~11月10日: 9時~17時
(夏休みは18時まで)
尚、閉館30分前までに入場のこと
|
休館日:
12月30日~1月2日のみ休み。
それ以外は無休。
|
問合せ先:
0959-73-0705
|
|
|
◆金福寺
|
概略:
寺号を両宝山金福寺という。
永徳3(1383)年に宇久から岐宿に拠点を移した8代・覚が開基となって建立した曹洞宗の古刹である。
境内には覚のものと伝えられる五輪塔2基のほか、慶長3(1598)年に本宮寺の頼延によって建てられた六地蔵がある。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆巖立神社
|
概略:
古くは岩立三所大権現と称された旧郷社。
祭神は田心姫尊・湍津姫尊・市杵島姫尊の宗像三神。
延暦22(803)年、空海が宮小島に創祀したのが始まりという。
永徳3(1383)年に8代・宇久覚が岐宿に居城を構えたのに伴い、現在地に移転、社殿が建立されたほか、祠宮を置いて祭祀料が給され、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊像が神体として安置された。
江戸時代になっても歴代藩主の崇敬を受け、宝暦5・1755年の寺社祠辻堂知行付によると岩立権現宮として社領31石余。
その後、明治維新後の神仏分離令によって阿弥陀三尊像は廃されて剣・玉・鏡が新たに神体として安置され、巖立神社と改称され、現在に至る。
例祭日は9月14~15日。
本殿の西側から北側に及ぶ社叢は県指定天然記念物となっており、シイノキ・タブノキやハマセンダンなどの樹木が生い茂る。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆水之浦教会
|
概略:
かつて牢屋があった場所に建てられた、木造教会堂としては最大規模である白亜の美しい天主堂である。
寛政9(1797)年頃、大村藩領からこの地一帯に移住した隠れキリシタンは幕末に至るまで密かにその信仰を貫いていたが、幕末の開国後の慶応2(1866)年に水之浦のキリシタン3名が長崎の大浦天主堂に現れ、その信仰を公にした。
やがて幕府が倒れ、明治維新となっても新政府は当初は幕府の禁教令を受け継ぎ、キリシタンを迫害した。
明治2(1869)年1月、水之浦、楠原でキリシタン35名が捕らえられ、楠原の牢屋敷に留置された。
その後、水之浦の牢に移され、算木責め、水責めなどの厳しい拷問を受けている。
そうした苦難の時期はしばらく続いたが、禁教令が撤回された後の明治13(1880)年、フランス人宣教師・サルモン神父によりこの地に教会堂が建立されたのである。
現在の建物は昭和13(1938)年に改築されたものである。
敷地内にはマリア像やイエス像、二十六聖人の一人であるヨハネ五島の像等のほか、牢跡もある。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆楠原教会
|
概略:
楠原の地にも水之浦と同じく大村藩領から隠れキリシタンが多数移住し、隠密裏にその信仰を貫いていた。
だが、明治維新の後にもキリスト教が禁教であることには変わりがなく、明治新政府はこの地の狩浦宅(尚、この屋敷の主・狩浦喜代助はキリシタンの中心的人物)を牢屋敷に改装し、狩浦喜代助以下の信者達を当初ここに監禁した。
その後彼らは水之浦の牢に移され、ここで厳しい拷問を受けたのであるが、明治6(1873)年の禁教令の撤回後、キリシタン受難のこの地に教会堂が建立された。
また、岐宿から教会に向かう道の途中にはその牢屋敷の跡と狩浦喜代助の銅像がある。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆岩嶽神社
|
概略:
承和5(838)年頃、遣唐使の従者で鎖鎌の名人であった者が順風を待つためにこの地に逗留している間に病を得て病死してしまった。
志ならず最果ての地で果てた彼の霊を祀り、建立されたのがこの神社である。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆大曽教会
|
概略:
青方港を望む高台にある教会堂。
江戸時代から潜伏キリシタンが居たと云われており、寛政年間(1789~1801)にも大村藩領から隠れキリシタンの移住があったという。
江戸幕府に続く明治新政府の禁教政策の下で、信徒たちは苦難の時期を耐え忍ばなくてはならなかったが、明治6(1873)年の禁教令の撤回後の同12(1879)年、この地に木造の教会堂が建立された。
現在の赤レンガ・ゴシック様式の教会堂は、明治32(1899)年から上五島の司牧を担当した大崎神父が鉄川与助との合作で大正5(1916)年に完成させたものである。
堂内はバシリカ型、板敷床、三廊式平面となっている。
尚、旧木造教会堂は若松宿ノ浦郷土井ノ浦に移築された。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆神島(こうじま)神社
|
概略:
小値賀島の東側に浮かぶ野崎島北端の山の中腹にある神社で、宇久と小値賀を結ぶ船の上からも見ることが出来る。
社殿の背後には王位石(おえいし)という巨岩が控えているのが何とも奇観である。
遣唐使の航行の安全を祈願し、慶雲元(704)年に創建されたという、五島で最も古い歴史を持っている。
旧郷社。祭神は神島大明神(鴨一速王)で、志々伎大明神(十城別王)、七郎大明神(七郎氏広王)も併せる。
小値賀島の前方郷にも同名で、同じ由緒、ほぼ同じ変遷を辿った神社があるが、この神社を「地の神島神社」というのに対し、当社を「沖の神島神社」と呼ぶ。
文禄5(1596)年、社殿を再興したほか、寛永2(1625)年には永代神領8石の寄進があった。
祭礼は小値賀押役が平戸藩主の代参を行なったが、8月3日~18日のお山参りでは小値賀の各地区ごとに船を仕立てて参拝する慣わしであった。
定祭は8月11日。
尚、野崎島は現在は過疎化により住民がいない無人島となっているが(小値賀町運営の自然学校の管理人が家族とともに常駐してはいる)、島の元住民が時々島を訪れたり、観光客が自然学校を利用したりするために、町営連絡船が定期運航されている。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆東光寺
|
概略:
寺号を「一宝山東光寺」といい曹洞宗の寺院である。
文治3(1187)年、宇久島にやってきた初代・宇久家盛により天甫存佐大和尚を開山として現在地に建立された。
以来、宇久氏の菩提寺であり、境内には初代・家盛、2代・扇、3代・太、4代・進、5代・競、6代・披、7代・実の墓所がある。
藩政の頃は寺領113石を賜り、福江の大円寺と共に五島家の菩提寺として明治維新に至るまでその格式の高さを誇った。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆毘沙門寺
|
概略:
寺号を「慧日山毘沙門寺」と称する高野山真言宗の寺院で毘沙門天王立像を本尊とする。
そもそもこの寺は、初代・宇久家盛が持仏の毘沙門天像を既にこの地にあった小庵に安置し大般若経を寄進したのが始まりで、家盛没後の文治5(1192)年に玄重大和尚を招いて開山とし、現在の寺号がつけられた。
以来、宇久・五島家の祈願所としてその格式の高さを誇った。
宝暦5・1755年の寺社祠辻堂知行付によると寺領は20石とある。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆神島(こうじま)神社
|
概略:
旧村社。
小値賀島と野崎島にも同名の神社があるが、その2つとは由緒も変遷も全く異なっている。
祭神は鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)のほか、天照大神(あまてらすおおみかみ)・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・彦火火出見尊。
宇久家初代・家盛はかねてから日向国(宮崎県)鵜戸神社の主祭神・鵜葺草葺不合尊を信仰していたが、宇久島上陸後の文治3(1187)年に飯良角の地に社殿を建立してその分霊を祀ったのが始まりである。
その後、神浦向、太田江を経て、現在地に遷座奉り、今に至っている。
宝暦5・1755年の寺社祠辻堂知行付によると社領は32石余とある。
明治7(1874)年8月に村社格を許される。
例大祭は10月第三土曜日と日曜日(旧暦9月9・10日)。
神輿担ぎは海人のみが行なったが、これは家盛が宇久島に上陸したときに海人たちに歓待を受けたことを報じて、祭礼に関する厚遇を与えた時以来のことだという。
地祭ともいう祈年祭では神楽を奉納する。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆山本神社
|
概略:
港のある商店街から城ヶ岳に登る道の途中にある神社。
宇久氏の居館はこの山本神社の周辺にあったと考えられているが、遺跡はいまだ見つかっていない。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
◆宇久島神社
|
概略:
旧村社。
祭神は菅原道真のほか、十城別命・七郎氏広。
古くは志自岐大明神と称する。
建武3(1336)年10月8日の五島住人等起請文案(青方文書)には「志自岐八幡」の名が見え、山王宮や神島社とともに誓約すべき祭祀となっている。
元亀元(1570)年、この志自岐宮と天満宮を合祀して天神山に祀られ、元禄元(1688)年に現在地に移転、志自岐三社大明神と称した。
江戸時代には五島家の崇敬を受け寺領1石の寄進を受けていた。
明治4(1871)年、現在の名称に改称。
境内には「芭蕉塚」、「道しるべ」、「宮地嶽神社」がある。
例大祭は10月24・25日。
神幸祭のうちにはシャグマ・棒引きがある。
露払いが行列を整え、紋付着流しのお塩浄め、黒羽織黒股引草履きの棒引き、黒羽織白股引草鞋履きのシャグマが進んでいくというものである。
|
地図:
|
交通:
|
|
|
|