■中国・蒙古之情勢(明時代)     <執筆:猛馬飼育係殿>

 賢帝とうたわれた孝宗弘治帝が1505年若くして死亡すると、明王朝の支配体制は動揺しはじめる。

次の武宗正徳帝は様々な奇行で周囲を驚かした。また政治への関心も低かったため、宦官劉瑾の専横を招く。

 明は宦官の政治介入を禁ずる初代太祖洪武帝の戒めにもかかわらず、総じて宦官勢力の政治的発言権が強かった。

これは成祖永楽帝が東廠という諜報機関を設け、その長官に宦官を任命し、皇帝親衛軍・秘密警察である錦衣衛をこの指揮下に置いたゆえに、東廠が宦官勢力の牙城となったためである。

劉瑾はこの東廠を復活して権力を乱用したため、皇族の安化王が反劉瑾を主張して反乱をおこしている。

また陽明学の開祖王陽明は劉瑾に憎まれ左遷されている。

 1521年に即位した世宗嘉靖帝は父親興献王の称号をめぐって“大礼の議”という論争をおこし、官僚達と対立する。

また道教の祈祷と宮殿建設に過度に熱中して行政を疎かにし、政治を混乱させた。

 こうしたなか明は外圧にもさらされることになる。

モンゴル高原ではアルタン・ハンの指揮下タタール部が強力となり、しばしば明に侵攻した。

特に1550年には北京がタタール軍に包囲された。

この事件を庚戌の変と呼ぶ。

その後アルタン・ハンが明との和議に応じて明帝から順義王に封じられ、また明もタタール部の要求を受けて馬市(交易所)を設けて交易の再開を認めたため、北辺の外患は去った。

 一方倭寇の活動も活発化していた。

この頃の倭寇は後期倭寇と呼ばれ、主に漢民族密貿易商人から構成されていた。

明は海禁政策を掲げて民間貿易を厳しく制限したため、これに対して商人達は密貿易や海賊活動を展開したのである。

その代表人物が王直である。彼は舟山諸島や日本の平戸を根拠地として日明間の密貿易を行い、また中国沿岸部にて略奪行為を働いた。

これを見た明政府は胡宗憲に命じて王直の勢力を鎮定させ、また海禁政策を緩和した。以後倭寇の活動は終息に向かう。

 1572年神宗万暦帝が即位する。彼の治世の初期は内閣大学士首輔である張居正が政治改革を行い、明の国力の再強化を図った。

張居正の重点項目は、戸口調査・土地丈量(検地)を実施して地主層の所有地隠し・脱税を摘発し、税負担の公平化と財政健全化を目指すことであった。

これがある程度成功し財政は黒字に転じた。しかしこの政策は彼自身の独裁的な姿勢ともあいまって地主層の反発を招き、張居正は死後生前の栄典を剥奪される。

張居正亡き後の万暦帝は政治への関心を示さず、官僚の上奏への判断をしばしば引き延ばしたため政務は滞りがちとなった。

一方官僚や宦官達は後々政争に明け暮れることになる。

またこの時期は寧夏のボハイの反乱の鎮圧、播州の楊応竜の反乱の鎮圧、日本軍の侵攻を受けた朝鮮への援軍派遣等で巨額の軍事的支出を必要とし、財政の悪化を招いた。

このため政府は鉱山開発や商税の増税を図る。さらに当時勃興しつつあった女真族に対する防備強化のために、相次いで新税を導入した。

度重なる負担増に民衆の不満は高まり、各地で民変(都市住民の暴動)がおこった。こうして明王朝は滅亡への道を歩んでいくことになる。

 ところで中国東北地方にはツングース系の女真族(ジュルチン族、満州族)が居住しており、当時彼らは建州部、海西部、野人部に分かれそれぞれ明の統制を受けていた。

しかし建州部のヌルハチが女真族の統一をすすめ、やがて明の統制から脱する姿勢を見せはじめる。

彼は後に後金(アイシン)を建国するが、これが清王朝の前身である。

後日清は中国に侵攻し、その全土を制覇することになるのであった。