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■戦国期におけるイスパニア(スペイン)とポルトガルの情勢
(カスティーリャ・アラゴン王国~イスパニア・ハプスブルク朝)



◆イスラム支配下のイベリア半島


イスパニアとポルトガルのあるイベリア半島の大部分は716年以来、イスラム教徒によって支配されていた。

それまでの西ゴート王国を破った彼らはこの地を「アル・アンダルス」と呼び、初期にはダマスクスのウマイヤ朝カリフによって首都のコルドバに派遣された「アミール(総督)」が支配権を握っていた。

だが、半島に侵入したイスラム教徒は先住民であるキリスト教徒に比べて圧倒的に少数であり(一説に6万人弱)、また、彼らイスラム教徒の間でもアラブ・シリア・ベルベル人といった民族によって確執や齟齬があった。


イスラムの支配者は先住民のキリスト教徒を自分達と同じ「聖典の民」として寛大に扱い、決して迫害することはなかった。

異教徒は人頭税や地代などの税を払えばこれまで通りの信仰の自由が保障された。


750年、ダマスクスではウマイヤ朝が倒れ、アッバース朝が興った。

その時、ウマイヤ朝の一族がアフリカを経てイベリア半島に難を逃れてきて、それまでのアミールの軍を破り、アッバース朝に従属しない独自の王朝を開いた。

これが「後ウマイヤ朝」で初代のカリフはアブドゥル・ラフマーン1世である。

この王朝の最盛期のカリフはアブドゥル・ラフマーン3世で、1031年まで275年にわたって栄華を誇り、イスラム文化と数学・天文学・医学・科学などの諸学問が発展を繰り広げた。




◆レコンキスタ(国土回復運動)


一方、イスラム教徒に治する抵抗運動は早くも722円頃に起ったコバトンガの戦いが最初である。

北バスクからアストゥリアにかけての山岳地帯はイスラム教徒の支配から免れた地域であり、この地にはイスラム教徒の支配を嫌ったキリスト教徒たちが避難してきていた。

彼らは西ゴート貴族の末裔といわれたベラーヨを指導者に仰ぎ、722円頃にコバトンガでイスラム教徒の軍を撃破した。

この戦いに始まる「レコンキスタ(国土回復運動)」と呼ばれたこの抵抗運動は15世紀末まで連綿と続けられていくことになる。


戦いに勝利したキリスト教徒らはアストゥリアス王国(後のレオン王国)を建国し、イスラム世界からの避難民を受け入れ、イベリア半島におけるキリスト教文化の中心地となった。


やがて1031年に後ウマイヤ朝が滅亡し、レコンキスタはさらに本格化していく。

アストゥリアス(レオン)王国を初めとした北部イベリアの弱小キリスト教国は統合・合併を繰り返し、軍事的に強大になっていき、後ウマイヤ朝のあとに起ったグラナダ王国などを圧倒していく。

そして奪還した地にはレオン王国、カスティーリャ王国、ナバーラ王国、カタルーニャ王国、アラゴン王国、ポルトガル王国が誕生する。

そしてそれらもまた婚姻などを通じて統合していくのである。

やがて1481年のキリスト教諸王国の攻撃により、グラナダは開城し、イベリア半島から完全にイスラム勢力は駆逐されたのであった。




◆アラゴン王国とカスティーリャ王国の統合


話はさかのぼるが、1469年カスティーリャ王国の王女・イサベルとアラゴン王国のフェルナンド皇太子がバジャドリードで結婚式を挙げた。

この結婚はイサベルの兄王のエンリケ4世の承諾を得ていなかったために王位継承権はエンリケの娘・ファナに移る事になった。

1474年、エンリケが没するとイサベルは即位を宣言し、ポルトガル側から支持を受けたファナと王位を争う。

この争いは内戦に発展するが、1476年のトーロの戦いで反イサベル勢力は鎮圧された。

そして3年後の1479年にポルトガル王もイサベルの王位を認め、敗れたファナは修道院に隠棲し、王位継承の争いは幕を閉じた。

イサベル1世女王(1474~1504)の誕生である。

彼女は西回り航路の発見の為にコロンブス率いる艦隊を派遣したことでも知られる。

新大陸の発見はイサベルの時代に成し遂げられたことであり、これがやがて植民地獲得に繋がっていくのであるが、このことについては後で詳細に述べることにする。

同年、アラゴン王・ファン2世が死去したことで、イサベルの夫もフェルナンド2世として王位に就いた。


この夫婦がそれぞれ王位に就いたことにより、カスティーリャとアラゴンは共同統治が始まり、ここにかつてない強大な勢力が半島に出現する。


カトリック両王」と呼ばれたこの2人の王は、内政の面では1480年に異端審問所を開設しキリスト教に改宗したユダヤ人などを火刑に処することで宗教的な統一を成し遂げ、対外的にはグラナダ王国を攻略、陥落させることによりレコンキスタを果たしたのであった。



そもそもカスティーリャ王国はレオン王国がケルト系カンタブリア人とバスク人の居住地域に伯(コンデ)を任命して統治させたことに始まる同王国の属国に起源を持っている。

961年に宗主国の衰退に乗じてその主従関係を絶ち、独立の伯領となり、1035年にはカスティーリャ王国となり、その2年後の1037年には婚姻により元の宗主国のレオン王国を統合し、最終的にはイベリア半島を統一したのであった。


現在、長崎の銘菓で知られる「カステラ」はカスティーリャ王国で盛んに作られていたことからその国の名がついたものである。




◆イスパニア・ハプスブルク朝の始まりとその黄金期


ところで両王との間には5人の子(イサベル、ファン、ファナ、マリア、カタリーナ)がいて彼らはそれぞれ政略結婚により外交政策に利用された。

イサベルはポルトガル王・マヌエル1世に、ファンは神聖ローマ皇帝・マクシミリアン1世の娘・マルガレーテと、ファナは同じくマクシミリアン1世の息子のフィリップ(美男王)と、カタリーナはイギリス王・ヘンリー7世の息子のアーサー(数ヵ月後の彼の死後には弟のヘンリー8世)に、マリアは姉・イサベルの死後にマヌエル1世に、それぞれ嫁ぎ、それぞれの国との同盟関係を強化した。


このうち、男子はファン一人だけであり、王位も彼に継承される予定であった。

だが、彼が1497年に急死し、彼の子供を身ごもっていた妃のマルガレーテも流産してしまったことにより、王位継承権は王女ファナに移ることとなった。

1504年、母のイサベル女王が死去すると、ファナ(在位:1504~55)がカスティーリャの女王になり、父・フェルナンド2世がカスティーリャの摂政に就任、夫のフィリップも共同統治という形で政治に参画する。

だがそれもつかの間の1506年、夫のフィリップが突然死去する。


このことでファナは発狂してしまい、夫の遺体を馬車に積んで国中をさまよう。

その姿を見た人々は彼女を「狂女王ファナ」と呼んだという。

やがて、ファナは父王によって強制的に修道院に幽閉され、その生活は1555年に彼女が75歳で死ぬまで続いたものの形式的には死ぬまで正式な女王であったのである。


ファナの幽閉後、ファナとフィリップの長男がイスパニア王・カルロス1世(在位:1516~56)として即位する。

イスパニア・ハプスブルク朝の始まりである。

だが彼はあくまで王の代行者に過ぎなかった。

統治不能者とはいえ、正式な女王である母が存命であったからである。


1519年、カルロスの祖父である神聖ローマ皇帝・マクシミリアン1世が死去すると、イスパニア王であるカルロスも次期皇帝候補に登る。

そして選挙の結果、対立候補のフランス王・フランソワ1世を破ってカルロスは神聖ローマ皇帝・カール5世として即位する。


 ヨーロッパ人の名前はその国によって読み方を変えるので、同じつづりの人名でも複数の読み方がある。
例えば、イスパニア人の「カルロス」は、ドイツでは「カール」、イタリアでは「カルロ」、フランスでは「シャルル」、イギリスでは「チャールズ」という風に呼ばれるのである。



その結果、カルロスの版図はオーストリアを初めとするハプスブルク家(神聖ローマ皇帝を代々継ぐ家の一つ)の所領、イスパニア、そしてイスパニアが中南米、フィリピンに獲得した広大な植民地となり、その版図は「太陽の沈むことなき大帝国」と云われた。

その版図は赤で示した領域である。




だが、彼はその広大な領土を治めるために生涯、東奔西走の日々を送ることを余儀なくされたのであった。




◆コロンブスの新大陸発見


話は少々さかのぼるが、1492年8月3日、イサベル女王の後援の元にカスティーリャの国旗を掲げた3隻の船がパロス港を出港した。

船団を率いるのはかの有名なクリストファー・コロンブス(1451~1506)であった。

彼の船団は一路西に向かい、10月12日にバハマ諸島の一つであるサン・サルバドル(「救世主」の意)島に到達した。

この時が彼らヨーロッパ人と新大陸の人々との記念すべき出会いの最初であった。

第一回の航海の成功を受けて、彼はその後3回も新大陸に渡航している。

だが、コロンブスはこの地を新大陸と気づかず、印度だと思い込んでいた。

そして、新大陸の住民達をインディオ(印度人)と呼び、それは終生変わらなかったのである。

世界史上、輝かしい偉業を成し遂げた彼ではあったが、これらの航海では目的の香辛料などを得ることが出来なかったことから、彼に対する風当たりは強かった。

そして1504年には彼の最大の理解者であったイサベルが没したことにより、誰にも相手にもされることなく不遇のうちに1506年バリャドリードにて没した。




◆イスパニアの新大陸征服


コロンブスの新大陸発見以後、この地にはイスパニア人たちが続々と上陸し、探検と征服を続け1500年代の初めにはカリブ海の島々の先住民達を制圧した。

彼らは先住民のインディオたちは奴隷として酷使され、またイスパニア人たちのもたらした疫病により、人口が激減した。

例えばカリブ海の島の一つであるエスパニョーラ島では40万以上居た人口が2・3万人程にまで減ってしまったのである。

そうして労働力が不足してくると、今度は大陸から新たにインディオを連行し、或いはアフリカ大陸から大量に奴隷として連行し、酷使したのであった。


ところで、コロンブスらが行き着いた地が新大陸だということを指摘したのはイタリア人の探検家・アメリゴ・ヴェスプッチ(1454~1512)であった。

彼もポルトガル国王の援助を得て新大陸方面への航海に出かけ、その結果、アジアとは気候・風土の異なる新大陸であることを確信し、1503年に彼が出版した「新大陸」という著作の中でこの説を唱えた。

その後、地誌学者・ワルトーゼ・ミューラが1507年に作成した地図に新大陸を記載するとともに、新大陸の名をヴェスプッチの名にちなんで「アメリカ」と名づけることを提唱した。



グアタルキビル河の約80キロ上流にあるセビリアという街は新大陸を目指す大型船が出入港をするということもあって、一攫千金を夢見る者たちが続々と集まってきた。

その中には新大陸の征服者となった者もおり、フェルナンド・コルテス(1485~1547)やフランシスコ・ピサロ(1476~1541)がまさしくそれであった。


1521年、コルテスは600人ほどの兵を率いてアステカ帝国の首都・ティノチティトランに乗り込んだ。

当初、アステカ皇帝・モクテスマ2世やその配下たちは彼らを怪しむことなく、むしろ東方からやってきた神の使いとして歓迎した。

そしてアステカの人々がコルテスらの正体に気づいた時には既に遅かった。

コルテスらはアステカに反感を持つ勢力をも味方にし、攻撃を加えた。

その結果、1521年、栄華を極めたアステカ帝国は滅亡した。


そうしてアステカ帝国を征服したコルテスはティノチティトランを植民地支配の中心地と定め、その廃墟の上にイスパニア風の都市を建設した。

これが現在のメキシコ市である。

また、彼の征服した地域はノヴァ・イスパニア(新しいイスパニア)と呼ばれ、コルテスは国王・カルロス1世から総督に任ぜられた。

ちなみにこの地は日本では「ノビスパン」と呼ばれ、伊達政宗によってローマに派遣されたかの支倉常長もこの地を訪れている。



コルテスらの成功を聞いたピサロもインカ帝国に乗り込んだ。

彼は3隻の船に180人・37騎の者とともに乗り込み、エクアドル北岸に上陸した。


そこからインカ帝国の領内に侵入し、政治情勢や地理などを詳しく調べ、皇帝と謁見する機会を伺っていた。

カハマルカに滞在する13代皇帝・アタワルパに謁見したピサロは隙を着いて攻撃を開始し、皇帝を捕らえた。

彼を釈放する代わりに部屋が一杯になるまで黄金を持ってくるよう伝えた。

折りしも帝国内部では内紛が起こっており、ピサロは現皇帝・アタワルパに対抗する弟・ワスカルを傀儡の皇帝にするつもりであった。

だが、このことは獄中のアタワルパに察知され、ワスカルはその手の者に暗殺されてしまった。

やがて、皇帝の身代金である部屋一杯の黄金は用意できたが、ピサロはアタワルパを解放せず、イスパニア国王に対する反逆と兄弟殺しの罪を着せて処刑したのであった。

そして後ピサロはワスカルの弟・ワルパを傀儡の皇帝としたが、彼は間もなく病没し、その後の傀儡皇帝はピサロに対し反乱を起こした。

ピサロ自身はインカ帝国の首都・クスコの支配権を巡る争いで1541年に暗殺されたが、彼に続くイスパニア人たちはその後も征服を続け、16世紀の半ば頃までにはブラジルを除く南アメリカ大陸の大部分がその支配下に入ったのであった。




◆新航路発見


人類で始めて世界一周を成し遂げたのはポルトガル人のマジェラン(1480~1521)である。

彼は本国では志を得ず、隣国のイスパニアのカルロス1世に謁見して西回り航路をでモルッカ諸島の香料を入手することを提案した。

そして国王の支援の元に5隻の船団に237名の乗員とともに乗り込み、1519年9月、セビリアを出航した。

南米南端のマジェラン海峡を通過し、太平洋に出たのは翌1520年11月28日、グアム島に到着したのはさらに翌年の1521年3月のことであった。

マジェラン海峡からここまで通ってきた海は非常に静かだったので、彼はこの海原を「太平洋」と名づけた。

グアムを出てから間もなく、フィリピン諸島に到着した。

ここにはまだ国家といえるものは存在しておらず、住民達は部族ごとに固まって暮らしていた。

マジェランの一行はセブ島近くのマクタンで住民達と戦いになり、彼自身はその地で殺されてしまったのである。

話は少々それるが、この島々がイスパニア領となったのはこのときから数十年後の16世紀後半頃のことであり、時の国王・フェリペ2世の名にちなんで「フィリピン」と名づけられたのである。


残った部下達はその後、モルッカ諸島で香料を積み込み、インド洋、喜望峰を経て、1522年9月、セビリアに帰還した。




◆ポルトガルの海外進出


一方、隣国のポルトガルも新航路の探検に力を注いでいた。

13世紀半ばにレコンキスタを完了したポルトガルは国土の大半が海に面していたことから海洋国家として発展していて、首都・リスボンは地中海と北海を結ぶ中継地として繁栄していた。

1415年にアフリカ北端のセウタを攻略したエンリケ航海王子(1394~1460)に始まる航路の開発は、バルトロメウ・ディアス(1450?~1500)による喜望峰の発見(1488)、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469~1524)による東回り航路により印度到達(1498年)などで飛躍的に発展し、やがて、印度のゴア、カリカット、モルッカ諸島にまで達した。





イスパニアとポルトガルは殆ど同時に世界の探検をしていた訳で、やがて植民地や勢力の範囲を巡って両国の間に争いが起こった。

その後、1494年両国の間に結ばれたトルデリシャス条約により、ヴェルデ岬諸島から西に2000キロの地点を走る経線の西はイスパニア、東はポルトガルの勢力範囲とすることが決まった。


これは西経46度と東経134度を境界としており、これにより中南米のイスパニア植民地(現在のメキシコ・ペルー・アルゼンチン等)とポルトガル植民地(ブラジル)との境界が大方定まったのである。

なお、東経134度といえば、日本でいうと岡山近辺なので、もし植民地になってしまったら、岡山から西はポルトガル、東はイスパニアに分割されてしまっていたかも知れない。

実際は日本は世界でも最大の軍事国家であり、その植民地化は不可能であったのだが。


1543年のポルトガル人の種子島上陸はこのような世界情勢の中で起きたのであった。




◆イスパニアの全盛期と落日


先述したようにカルロス1世の時代には世界各地に持つ広大な植民地を擁する大帝国となった。

中南米の植民地から産出された金銀は本国に運ばれ国の経済を潤すかに思われたが、その多くは国内で流通することはなかった。

一つは1492年の「ユダヤ教徒追放令」により、金融・流通を担っていたユダヤ人達を追放してしまったことにより、その分野での専門化が国内に居なくなってしまったことが挙げられる。

そして彼らに入れ替わりやってきたイタリア人の金融業者や銀行家たちが新大陸の鉱山発掘権を握り、イスパニアの国家財政の赤字を埋める代償として持って行ってしまったのであった。

カルロス1世の時代には度重なる対外戦争などにより国家財政が慢性的な赤字になっていたからである。


カルロスは1556年には痛風により子のフェリペに王位を譲り、その2年後の58年に没した。



カルロスの跡を継いだフェリペ2世(在位:1528~98)は父王から広大な版図を受け継いだが、1581年にはポルトガルの王位継承者が途絶えたことにより、ポルトガル王も兼任することとなった。

先にポルトガル王・マヌエル1世とイサベル女王の娘・マリアが政略結婚していたことにより両王家は縁戚となっていて、王位継承権もあったからである。

ここにポルトガルはイスパニアに併合され、その版図は最大となった。



だが、父王以来の国家財政は好転することなく、1557年と1775年の2回も破産宣告をするに至ったのである。


このために深刻な財政危機と貨幣価値の大幅な下落、インフレにより、国民の苦しみようは目に余るものであった。









(続く)