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■戦国期における朝鮮の情勢
(李氏朝鮮王朝)


◆倭寇の跋扈


倭寇とは朝鮮半島や中国大陸沿岸にかけて荒らしまわった海賊集団で、朝鮮や中国の人々は彼等を「倭寇」と呼んで恐れた。

「倭寇」という表現の起源自体はかなり古く、西暦404年の高句麗広開土王の碑文にその文字が見えるのであるが、彼等の活動が本格化するのは14世紀から16世紀のことである。

彼等の本拠地は主に対馬・壱岐・五島列島の「三島」と総称された島々、それに北九州であった。

前者の三島は元来地形が急峻で平地が少なく、しかも土地がやせていて農耕には適さない地であったので、自給自足の生活を営むには困難な地域であった。

彼等が生きるためには必然的に他の場所からの略奪をせざるを得ない状況となっていたのである。

略奪の対象の多くが米穀などの食糧であったことがその証左であろう。


だが、こうした海賊行為を働く者たちのすべてが日本人であったわけではなく、朝鮮人や中国人も含まれており、中にはむしろ朝鮮人や中国人達が日本人を手引きすることや、日本人の服装や出で立ちをした現地人が略奪行為をすることもあったという。


倭寇の勢力がこの時期に激化した要因としては政治的な要因も考えられる。

11世紀以降、朝鮮半島に渡って貿易に携わる者は多くなり、13世紀中頃には「進奉船」と呼ばれる渡航回数や船の隻数に関する規定も当時の高麗王朝により作られていた。

だが、朝鮮半島に蒙古の勢力が及んでくるとそれらの「進奉船」は廃止され、全うな貿易活動が出来ないようになってしまったのである。

このことで従来の貿易に携わっていた者たちの一部は略奪行為を働くようになったという。

また、蒙古の支配を受けた高麗王朝は日本への侵略の為の軍船を造らされ、兵として駆り立てられるなど、蒙古にいいように使われ、疲弊も甚だしかった。

このことも倭寇の跋扈を容易にしていったのである。




◆高麗王朝(918~1392)末期


高麗は918年、王建(ワン・ゴン)により建国されたが、王朝の全期を通して契丹(遼王朝)、金王朝、蒙古(元王朝)といった外圧に悩まされ、時には抵抗し、時には服従して国を維持してきた。

特に元の支配は徹底しており、近代までの未婚男子や女子の三つ編みの髪型、焼肉を食べる風習など、従来の生活風習までも変えてしまうというものだった。
歴代の王たちも元の皇女を娶らされ、王の称号も元によりつけてもらうという状況だったのである。

だが、さしもの蒙古による元王朝も14世紀に入ると中国大陸各地での反元勢力が活発になりその退潮が露わとなってきた。

これを見て取った恭愍(コンミン)王は1356年に反元運動を始めた。

彼はそれまでの元による元号を用いず、親元派を政権から締め出し、元により占領されていた北部領土を武力で奪還するなどした。

そして1368年に元に代わって明が建国されると、使者を送って連携を強めた。

しかし、時として親元派が巻き返しをはかるなど不安定な政情であった。




◆李氏朝鮮(1392~1910)建国


高麗末期に朝鮮半島北部の武将として活躍していた李成桂(イ・ソンゲ。太祖)は倭寇を撃退するなど名をあげた。

やがて王朝内部で実権を握った彼は周囲に推されて自ら王として即位し、王朝を開いた。


彼は明に使者を送り国号を「朝鮮」とつけてもらい、親明政権としての立場を明確にした。

また1394年には王都をそれまでの開城(ケソン)から漢陽(ハンヤン・漢城とも。現在のソウル)に移し刷新をはかった。


国際的には1401年に明によって朝鮮国王の地位が確認され、後述するように嘉吉3(1443)年には癸亥約条(きがいやくじょう・嘉吉条約)が日本との間で取り交わされた。




◆李朝初期の文化


李朝において支配体制を実際に運営したのは両班(ヤンバン・文班と武班を総称したもの)と呼ばれる官僚階級であるが、彼等は科挙と呼ばれる試験によって登用された。

彼等は儒学を信奉し、中でも14世紀になって移入された朱子学を特に信奉し、日常の生活規範とした。


その基礎の上に両班文化が盛んになり、史書や地誌などが編纂されたほか、建築・美術・文学・思想の各分野で展開されたのである。


さらに特筆すべきものは朝鮮語を表記する「ハングル(「偉大な文字」の意)」の創始である。


それまでの朝鮮においては漢字で国語を表記するしかなく、文書などは教養のない一般庶民や女子には全く縁のないものであった。


しかも漢字では自国語を正確に書き写すことは出来ず、「吏読(りとう)」という方法に頼るしかなかったのである。


太祖・李成桂の孫で、「海東の尭舜」と讃えられた4代王・世宗大王(李祹・りとう・韓国の1万ウォン札に描かれている人物)はこうした実情を憂え何とかならないかと考えた。

「学のない一般庶民でも簡単に、しかも正確に国語の表記ができる文字を」、と学者達を指揮して朝鮮独自の文字の研究を重ね、その結果出来上がったのが1443年に創案され1446年に公布された「訓民正音(くんみんせいおん・ハングルのこと)」と呼ばれる朝鮮文字である。

しかしながら、折角制定された文字であるにも関わらず、「諺文(おんもん)」と呼ばれて卑しめられ、公式な文書で使われることはなく、一般庶民や婦女子が使うに留まった。

李朝末期の1894年の甲午改革によってようやく公用文にハングルが使われるようになり、朝鮮総督府による日本統治下において「ハングル」の称号が用いられるようになったのである。




◆倭寇への対応


李成桂・太祖は武力で倭寇を鎮圧するという強硬策を取る反面、懐柔策も用いた。

これは朝鮮王朝に投降する者に対して官職を与え、また生活物資や貿易の権利を与えるというものであった。


嘉吉3(1443)年、4代王・世宗大王の代に日本と朝鮮との間で交わされた嘉吉条約では、対馬の宗氏は朝鮮王朝の意向を受けて、日本側の朝鮮への渡航者を管理する立場を与えられた。

宗氏は日本においては守護大名である傍ら、朝鮮王朝からも官位を与えられていたのである。


朝鮮に渡航する年間の船の隻数は50艘を限度とし、その中で西日本の領主達に隻数が割り当てられた。

その内訳は…


宗氏が10艘

松浦党が平戸・呼子・壱岐・波多・五島を合わせて10余艘

少弐・渋川・三原・菊池・島津・伊集院などがそれぞれ2艘、

名和・大内・村上・小早川などがそれぞれ1艘



というものだった。



対朝鮮貿易における宗氏の権限は絶大であった。


康正元(1455)年、五島の領主・宇久氏13代勝(かつ)の時に治めていた福江島三井楽に16名の朝鮮人が漂着したことがあった。

宇久氏は彼等を丁重にもてなし、無事に本国に送り届けた。

その返礼が朝鮮からあり、宇久氏に対し、従来の渡航船2艘を3艘にしたのである。

このことを聞いた宗氏は管理者の自分を通さずに勝手なことをしたといって憤慨し、一時は宗氏と宇久氏とが対立し険悪な状態になった。

結局、宇久氏側が非をわびて虎の皮5枚と其の他宝物を宗氏に送り、円満に解決したのであった。



この倭寇に対する懐柔策が功を奏し、海賊行為を働く者の数は目に見えて減少していった。


しかし、消滅してしまうかに思われた倭寇は16世紀に入ると再び活性化するようになる。

綿布は朝鮮においては貨幣と同様の価値をもつものであったが、その当時の日本でも自給されていなかったために、貿易で多くの綿布が日本へ輸出された。

だがその量があまりに多く、農民の生活を疲弊させるようになると、朝鮮側は次第に彼らとの貿易を制限するようになった。

その為に日本人の為に開かれていた乃而浦(ないじほ)・富山浦(ふざんほ・今の釜山)・塩浦(えんほ)などの三つの浦にいた日本人が暴動を起こしたり(1510・永正7年の三浦の乱)、旧来の倭寇が勢いを盛り返してきたのであった。






◆文禄・慶長の役(壬申倭乱)


時代は下って天正18(1590)年、豊臣秀吉により天下統一は達成され、長く続いた戦乱の世も一応は終わりを告げた。

秀吉はその次なる目標に大陸進出を目論んだのである。

これは彼自身の大いなる野望の賜物とも云われているがどうもそれだけではなかったようである。


秀吉は天下統一に先立ち、九州や関東・奥羽に対し「惣無事令」を発し、大名間の私闘を禁じており、国内における武力抗争はすべて非合法となった訳である。

しかし、それで争いの火種が急にすべて消え去る訳でもなく内に鬱積していったのである。

また秀吉の統一後の政権における内部矛盾による不満もそれに拍車をかけていた。


秀吉の出兵はこうした国内の不満を外に逸らす為になされたものであった。


自国での政策の失敗や矛盾に対する不満を、他の国を攻撃することにより逸らすという手口は他にもいくつかの国でも見られることではあるが…(溜息)。




さて、秀吉は文禄元(1592)年1月には全国の諸大名に対し、動員令を下し、3月1日を出陣日と定めた。


渡海兵数は15万8800人であり、これに名護屋城の後詰を合わせると30万5300人に登った。

渡海する兵は一番隊から九番隊に編成された。

天正19(1591)年10月には肥前に壮大な名護屋城を築き、翌4月には一応の完成を見た。

そこを拠点として約16万の陸兵、約9千の海兵を朝鮮に差し向けたのであった。

この名護屋城には時として秀吉自身も足を運び、陣頭指揮を執った。


文禄元(1592)年4月12日、小西行長・宗義智率いる一番隊(時の五島領主・五島純玄も松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前らとともに一番隊に所属)は釜山に上陸した。

行長は朝鮮に道を借りて明に侵入するという「仮道入明(かどうにゅうみん)」を朝鮮側に求めたが、釜山城守・鄭撥(チョン・パル)はこれを拒否した。

このことで、以後7年間に及ぶ戦いの火蓋が切られたのである。


日本軍の侵略に対し、朝鮮側はそのことを全く予期していなかったこともあって、当初は有効な対策を立てることが出来なかった。

兵役の布納化・代価雇立制への変化により、軍の弱体化がそれに輪をかけていた。


この当時、日本は世界でも最大の軍事大国といわれており、多数の鉄砲と精強な兵を擁していたが朝鮮には鉄砲がなかった。

そうなると、戦況は日の目を見るより明らかである。


二番隊以降の加藤清正、鍋島直茂、黒田長政、大友吉統らの諸将も半島に上陸し後に続いた。

諸将率いる日本軍は快進撃を続け、上陸から20日ほど後、小西隊は5月2日に、加藤隊は翌3日に首都の漢陽に到達し占領した。

日本軍が半島に上陸したとの報せを聞いた国王一行は4月29日の朝、都を捨てて北上し平壌(ピョンヤン)に移った。

国王が都を落ちるという出来事は1392年の建国以来初めての出来事であった。


日本軍は漢城を押さえると今度は国王を追って一斉に平壌を目指した。

そして6月15日にようやく平壌についた頃には国王らは既に脱出した後だった。

国王一行は日本軍の軍馬の足音におびえながら鞭声粛粛と昼夜を問わぬ逃避行を続け、明との国境の街・義州(ウィジュ)に辿り着いたのである。


平壌城に進駐した日本軍はここの守備を固めると、その後も各地で転戦し、緒戦は華々しい戦果を収めた。


興味深いことは当初は朝鮮の民衆も侵略者であるはずの日本軍を歓迎していたことである。

民衆は王朝の圧制に苦しめられてきたこともあり、政府から民衆に対し日本軍に立ち向かうよう呼びかけられても、それに応じないどころか、混乱に乗じて地方の官庁にある奴婢文書を焼き捨てたり政府に派遣された守令(役人)を殺害することさえあったという。


主が居なくなった王都は無法の地となり、暴徒と化した群衆が王宮に乱入し、財宝を掠め取り、官庁の文書を焼き払うなど狼藉を働いた。

それほど朝鮮王朝は民衆に恨まれていたのであろうか、日本軍は自分達を解放してくれる者として映ったに違いない。

日本側も「朝鮮の民を苦しめている支配者を懲らしめ、解放するために来た」との宣撫工作を行い、現地の将兵に対し乱暴・狼藉を厳しく禁じるなど民心の掌握にも努めた。

こうして貧困と抑圧に喘いでいた朝鮮民衆も当初は日本軍の支配に協力的でさえあったのである。


ところが、支配に際して強引な検地を行なったことが在地両班や農民達の抵抗を呼び、この事が義民運動の導火線となっていくのである。


これをみた在地両班たちは民衆を率いて義民運動を展開していく。

そして、その運動は朝鮮全土に広がっていくのであった。



ちなみに上杉家では景勝・直江兼続らが名護屋に在陣はしたが、朝鮮に渡ったのはごくわずかな期間であり、さほど目立った戦績は上げていなかったようである。

ただ、戦いの中で直江兼続は配下の将兵に対し、厳重に略奪などの狼藉を戒め、朝鮮にある貴重な文献や書が兵火や泥土にまみれて消滅するのを惜しみ、それらを蒐集し、本国に持ち帰ったのであった。

またかの地の銅活字も持ち帰ったという。

それらはのちに「直江文選」といわれる書籍の刻梓の元となり幾多の出版物の中で福本日南が賞賛した「五臣註文選」60巻30冊に及ぶ大著の刊行となった。

この刊行は京都の要法寺で行なわれ、慶長12(1607)年に出版された




さて、朝鮮側は日本軍に対抗すべく体制の立て直しをはかった。

領議政(宰相)の地位にあった柳成龍(ユ・ソンヨン)は軍事態勢の立て直しに努め、海上では李舜臣(イ・スンシン)将軍率いる亀甲船(船体を鉄板で装甲した船。当時としては画期的なものであり、世界でも類を見ないものであった)で日本の水軍を大いに打ち破り、制海権を得ている。

また陸上では郭再祐(クァク・チェウ)将軍率いるゲリラ部隊、義兵を率いた高僧・惟政(ユジョン)、李舜臣と並び称される名将・権慄(クォン・ユル)将軍らの活躍があった。

この李舜臣という人物は朝鮮半島においては今なお多大な尊敬を受けており、明治期の日本においても東郷平八郎元帥らの尊敬を受けていた程の名将である。


日本軍は当初の間こそは勢いが良かったものの、陸路は義民兵によって、海路は朝鮮水軍によって兵站線を断ち切られ苦戦を強いられるようになった。


それに加え明軍も朝鮮半島に乗り込み、参戦してきたのである。

明も朝鮮国王からの派兵を要請されていたにも関わらず当初はこれに応じなかったが、日本軍のあまりの進撃の早さに自国の防衛にも危機感を覚え、文禄元(1592)年の7月、祖承訓(そしょうくん)率いる5千人の援軍を派遣したのであった。

明軍は日本軍の守る平壌城を攻めたが撃退された。

小西行長は敗走する明軍を追わず、これに停戦を申し入れ、9月にはひとまず停戦に持ち込む。

だが、この停戦の間、明側は新たに平壌攻略の準備を進めていたのであった。


翌文禄2(1593)年の1月5日、李如松(りじょしょう)を提督とする4万の大軍と金命元(キム・ミョンウォン)率いる1万の朝鮮軍が平壌城を取り囲んだ。

この時、城内の日本軍は1万5千に満たなかった。

明・朝鮮連合軍は大砲で城門・城壁を破壊し、城内に侵入した。

如松は行長に対し、「退路を与える代わりに城を明け渡せ」と通告し、行長らはこれに応じて城を脱出し、大友吉統の守る鳳山(ポンサン)城を目指した。

折りしもこの時は厳寒の時期であった。


殆ど寒さに対する備えがなかったのに加えて明・朝鮮軍の追撃を受け、日本軍の逃避行は悲惨極まりないものとなった。

ようやく鳳山城に辿り着いた時には味方がいない空城であった。

城将の大友吉統は命令を無視して安全なところに逃げ出していたからであった。

この吉統の行動を知った秀吉は激怒し、彼を改易した。

豊後の名門で大名家としての大友氏はこれにより滅亡してしまったのであった。


平壌を失った日本軍は、その後の1月26日、漢城の北16キロの碧蹄館の戦いで勝利はしたもののそれが精一杯であった。


はかばかしくない戦況に日本と朝鮮の宗主国の明との間で和平交渉が始められ、4月18日、日本軍も朝鮮から引き揚げて一応の和議は成った。

だが、その交渉内容が秀吉の意図するところと違う為、彼は激怒し、交渉は決裂した。


慶長2(1597)年2月、秀吉は再び14万1490人の大軍を投入し朝鮮に攻め込んだ。

だが、今度は朝鮮側も備えが強化されており、容易に進軍出来ず、南部沿岸地域を確保出来ただけであった。

戦況は膠着状態になり、現地の日本軍も厭戦的な雰囲気が漂う中、翌慶長3(1598)年8月に秀吉が病没したことで日本軍は10月に撤退を始め、11月26日には撤退が完了した。

こうして7年余にわたった戦乱は終わりを告げたのであった。



この戦乱により多くの人命が失われたほか、田畑の多くも荒廃し、朝鮮全土に多大な傷跡を残した。

陶工達を初めとする技術者も多く日本に拉致された。

尚、彼等陶工達は日本では優遇され、武士に準ずる待遇を受けた者も居たという。
(朝鮮では労働することが卑しいこととされていたので、本国での彼等の地位は非常に低かった)


一方、日本側も五島純玄(すみはる)や来島通直(みちなお)らを初めとした多くの将兵が病死・戦死し、また諸大名の領国においても農村や漁村の主力を担う働き手を徴集されたことで領国のかなりの部分が荒廃し経済にも大きな打撃を受けた。


そして、その打撃が豊臣政権の瓦解を早めたのであった。




◆再び国交を回復し…


前記のような侵略があったこともあり、日朝の間はしばらく絶縁状態が続いていたが、関が原の合戦によって豊臣家に代わって天下人となった徳川家康は再び朝鮮との国交回復を模索した。

その意図は朝鮮との貿易の利潤目当てというよりも、自身の政権を外国が認めてくれることにより、正当化しようとしたことに他ならない。

征夷大将軍になり、幕府を開いたとはいえ、大坂には豊臣氏も、そして日本各地には豊臣恩顧の諸大名も居り、まだまだ不安定な情勢が続いていたのでこのことは家康にとって切実な問題であったのであろう。


朝鮮側は当初は日本川の呼びかけに応じなかったが、朝鮮との貿易が死活問題であった宗氏の必死の働きにより、慶長12(1607)年ようやく朝鮮側も使節を日本に派遣した。

そして慶長14(1609)年己酉条約が結ばれて国交は回復した。


使節は日本側の呼びかけに応じて派遣され、明暦元(1655)年以後は「通信使」という名称で将軍の代替わりごとに派遣されるのが慣例となった。

彼等は海路と陸路を通って江戸までやってきたのである。

その行列は4~500人からなる異国情緒溢れる華やかなものであり、道筋には通信使を一目みようと見物客であふれたという。

日本側も朝鮮王の代替わりごとに使節が派遣されたが、使節は釜山に置かれた倭館までで留められ、漢城まで入ることは許されなかった。


前回の侵略もあり、日本側に軍事施設や地理を知られるのを警戒したためである。


この通信使は江戸期を通じて前後11回派遣され、最後の通信使は文政4(1821)年であった。