■米澤上杉まつり2004
其の六(合戦弐~帰陣)



※この頁の画像の一部は臨雲白龍殿及び米澤観光協会殿の提供で御座る。
この場をお借りして篤く御礼申し上げますぞ。

◆列之段 龍虎相打つ~三太刀七太刀
   ~謙信・信玄の一騎討ち~


謙信公は名馬・放生月毛に跨り、名刀・小豆長光を振りかざし、単騎で武田本陣を目指し切り込む。

突然の切り込みに信玄は太刀を抜く余裕もなく手に持った軍配で受け止めたが、三度の打ち込みで七箇所に傷を負ったことから「三太刀七太刀」と云われるようになったという。

単身武田の陣地を目がけ、奔る…


謙信が斬りかかり、信玄が軍配で受け止める。
あまりの熱気に、周りの空気も揺らいでいる。


「信玄を討ち取ることはできなかったが、その心胆を寒からしめることは出来たようだ」

と満足気の謙信公。

「御屋形様、よくぞご無事で!」

と駆け寄ってくる歩兵達。



◆在之段 武田の逆襲~高坂隊到着

妻女山の上杉軍背後を突こうとした武田高坂隊の「啄木鳥の戦法」が謙信公に見破られ空振りに終わったのをみて、急いで川中島を目指していた高坂軍が武田軍の敗戦も間近と見えた時にようやく千曲川を渡り、押し寄せて来た。

これを上杉軍の直江隊と甘粕隊が迎え撃つ。

一旦両軍が引き、上杉軍は「魚鱗の構え」に、そして武田軍は再び本陣を移し、崩れかけた陣形を立て直す。


この時、高坂軍はどこから現れてくるのだろうと思っていたのだが、その登場の仕方が凄い。

何と本当に川の中を渡ってきたのである!
これには本当に驚いた。(石和の場合は仮設橋をわたって、上越の謙信公祭の場合は丘の上から登場するので)
       
(提供:米澤観光協会殿)


(提供:米澤観光協会殿)
◆前之段 終局~総懸かり

両軍陣形を立て直し、鉄砲隊の撃ち合いから上杉軍は全軍総懸かりの合図である「乱れ龍」の旗を押し立てて総攻撃をかけ、対する武田全軍と死闘を繰り広げるのである。

この時、動かざること山の如く本陣の脇におり、戦いの趨勢を見守っていた我々自前甲冑軍団も突撃ということに。
一同は大音声を上げ、武田の陣を目指し、突撃する。

しかし肥前守左馬之助殿とのりび殿は戦場の途中まで来た時に同士討ちを始める。
彼らの間に何が起こったのであろうか?
もしかして彼らのどちらかが武田の手の者に調略され、寝返りを約束していたのか?
または単なる死闘か?
そして、彼らの間の戦いの結末はいかに?!

それは戦いが終わった後となっては知る由もない…。



一方、それがしと飯綱武蔵守法達殿、やーたろー殿は他の雑兵を一顧だにすることなく、ひたすら武田本陣を目指し、突進。

待ち構えていた信玄を始めとする内藤・板垣・高坂を始めとする猛将たち…

ここで自前甲冑軍団の歴史上に残る激戦が。


飯綱武蔵守法達殿は高坂と対戦する。敵も数々の激戦を潜り抜けてきた剛将であったが、飯綱殿のその恐ろしげな姿と武芸の秀でたる様子に、とても敵わないとみるや槍を投げつけて退散した。
さすがは我が自前軍団の長老であり、父とも仰ぐ飯綱殿である。

やーたろー殿とそれがしは信玄に対し斬りかかるも軍配であっさりかわされてしまった。
そしてひるんだところを内藤、板垣の諸将に取り囲まれ、危うく討ち取られそうになる。

もはやこれまで…と思いしが、最後の死力を振り絞ってそれを撥ね退ける。

そして、それがしが内藤・板垣の諸将を食い止めている間に、やーたろー殿は再び信玄に斬りかかるも、今度は強烈な蹴りを入れられてしまったのである。

それがしは名だたる諸将たちと斬り合いを続けるも、さすがは名にし負う豪将たちである。

「天晴れよかろう敵がな」

そう思い定めていたそれがしにとって彼らとの戦いはまたとない冥土の土産となった。


              彼方から迫り来る武田軍をみて色めき起つ上杉兵


武田軍の雇った南蛮兵も抜刀し、突進してくる。


(提供:米澤観光協会殿)
硝煙、土煙の立ち込める戦場で激闘する両軍の兵。
(提供:米澤観光協会殿)

名だたる将同士の対決。
その後の勝敗は如何?!


(提供:米澤観光協会殿)
だが…

我々の戦いの勝敗はつかぬまま、退却の下知が下され、やむなく退却へ。
謙信公は本陣を善光寺に引き上げるとのことである。

それがしもそれに続こうとするも先の激戦で力尽き、そのまま大地に倒れ、気を失ってしまったのである。

周りは死体が累々と横たわり、戦いの激烈さ・無残さを物語っている。



(提供:米澤観光協会殿)


なお、この後は追撃する武田勢を直江隊と甘粕隊がしんがりとして食い止めたという。


そして戦いは終わった。


この総懸かりでは信玄の弟の一人・典厩信繁、両角豊後、そして武田の名参謀・山本勘助晴幸が討死したほか、両軍ともに甚大な犠牲者が出たという。

また自前甲冑軍団にも肥前守左馬之助殿の鎧の五枚胴のうちの5枚ともが凹んでしまっており、やーたろー殿の鎧も凹みの他装飾の一部が取れてしまうなど甚大な犠牲となった。(幸いにしてそれがしは微々たるかすり傷で済んだのであるが、明日は我が身と思うと他人事とはとても思えない。その心中察して余りあるものがある。だが、こういったことは自前甲冑軍団の宿命とも云うべきものであり、誰を恨むことも出来ないのである。)


彼方でナレーションの声が聞こえてくる。

三途の川から呼ぶ声のようでもある…


しかしそれがしは生還した。

息を吹き返し、自力で自軍の陣地に戻ってみると他の自前軍団はそこにいた。



その後上杉・武田両軍は和睦となった。

両軍の兵たちは合戦場の真ん中に集まり、両軍の諸将たちは観衆たちに挨拶をする。

ここで上杉方の色部勝長の司会のもと、上杉軍と武田軍はそれぞれ勝ち鬨を上げることに。

観衆の中で自ら名乗り出てきた者や両軍の諸将が観客の中から選んで連れてきた者に勝ち鬨の音頭を取ってもらう。

なかなかいい趣向である。



「エイエイオー!!」

「エイエイオー!!」



その声は会場にこだまし、合戦の時とは打って変わった和やかな雰囲気のなかで行われた。

ここで武田軍の方から重大な発表がなされる。

この上杉まつりでは毎年武田方の諸将の役を決まった御仁がやるとのことであるが(ここは上杉の地ということもあり、どうも武田方は人気がないらしい)、此度の戦で信玄公役の方はその役を隠退し、次を彼の実の息子が引き継ぐということになったのである。

それを聞いた謙信公役の御仁は「長い間ご苦労様、息子さんの代になってもともに戦いましょうぞ」とねぎらいの言葉を贈った。


これを持って合戦祭りは全て終了し、あとは記念撮影の時間となる。





武田方の高坂弾正、内藤昌豊、板垣信形、そして信玄公、上杉方の諸将及び謙信公はすぐに観客に取り囲まれ、記念撮影をせがまれ、それに快く応じるといった光景がここかしこで見られた。


この時に土手の上で観戦していた臨雲白龍殿が現れ、それがし共に合流。
しかしこの戦場或いは観客席のどこかにいるはずの男爵殿はどこを探してもそれらしい人物を見つけることは出来なかった。
飯綱武蔵守法達殿、肥前守左馬之助殿はここでも観客の人気を独り占めにする。
のりび殿、やーたろー殿にも観客は群がる。
それがしはというとかなり疲れていたので、彼らの姿を尻目に休憩する。


やがて、撮影も一段落したところで、それがし共もポポロを目指し、退却する。
ここで武装解除し、身軽な姿になる。そして荷物をまとめ、観光協会の方々に挨拶し、ポポロを出た。


この後、自前軍団はせっかく時間もあることだからということで、上杉城史苑内の喫茶店に集まり、雑談に興じる。





はて、この中に一人だけ武装解除していない御仁がおる。

そう、この御仁である!





この面々の中で鎧を愛してやまないこの御仁は普段も甲冑を着ているのではないかという噂もあり、とにかく話題性豊かな御仁である。


さて、それがし共が話に花を咲かせている途中でメールが入ってきた。
見ると男爵殿である。
今どこにいるのか分からないが合流したいとのことである。
その前にも何度かメールがあったようであるが、武装する時に携帯を荷物の中に入れて持ち歩いて居らず、着替えた後も色々慌しかったので気付くのが遅れたようだ。
大変申し訳ない。

すぐにそれがし共の居場所をお知らせし、城史苑の外で待つことにした。

そして彼が現れた。
だが、彼には見覚えがあった。
実は合戦が終わった後にそれがし共を撮影していた人物だったのである。

あの時はお互いに気が付かなかったようだ。

中に入り男爵殿を紹介し、改めて雑談を始める。

やがて、我々も帰らなければならない時間となり、記念撮影をして解散する。
別れの間際に男爵殿からお土産の饅頭を頂いた。
誠に忝ないですぞ。





この後、一同はそれぞれの帰途につき、それがしと飯綱武蔵守法達殿はのりび殿の車に同乗させて頂き、関東に向かう。

途中飯坂温泉の銭湯にて汗を流し、さっぱりしたところで、今度は高速を走り、途中の二本松サービスエリアで食事し、飯綱武蔵守法達殿の屋敷に立ち寄り、それがしは宇都宮のサウナ「南大門」までお送りして頂いた。

ここまでのりび殿には誠にお世話になりました。
この場で御礼申し上げますぞ。

そして、それがしはここでまた一泊し、翌朝東武線とJR線を乗り継いで屋敷に帰り着いたのであった。

(完)