■米澤藩史
<景勝以前>
米沢を中心とする置賜郡一帯は鎌倉時代以来長井氏によって支配され、米沢城は暦仁元(1238)年長井時広の創建といわれている。
しかし南北朝時代に入った天授6(1380年)、突如伊達宗遠が侵攻してきてこの地一帯を制圧し、以来この地は伊達氏の所領となった。
独眼龍といわれた伊達政宗もこの米沢城にて生まれ、この地を足がかりにして戦国大名への道を歩んでいったのである。
だが政宗は秀吉の小田原攻めに遅参し、領地没収は免れたものの、会津地方を失った。さらに天正19(1591)年には仙台に転封になり、次に蒲生氏郷が会津90万石の支配者としてこの地を支配した。
やがて氏郷は文禄4(1595)年41歳で死去し、子の秀行が跡を継いだものの上級家臣の内訌を押さえ切れず慶長3(1598)年に下野宇都宮18万石に転封になり、代わって上杉景勝が会津120万石の支配者となったのである。
<景勝以後>
景勝は120万石の太守、また豊臣5大老の一人として会津黒川城に根拠を置いたが、米沢城はその家老である直江兼続が30万石の領主として支配した。だが同年豊臣秀吉が死去し風雲は急を要していた。
徳川家康は領内の整備にあたっていた景勝にしきりに上洛を強要したが、転封間もないために領内の仕置きに忙しくその求めに応じることが出来なかった。これを見た家康はみずから景勝征伐の軍を率い、会津へと向った。この直前に直江兼続より家康に提出されたのが直江状と呼ばれる釈明の書であったのである。
家康は下野小山まで出向いたもののそれ以上は北上せず、ここできびすを返して江戸へ向った。このとき兼続はしきりに追撃を主張したが、景勝はそれを卑怯だとして肯かなかった話は有名である。
一方上方では家康不在の隙をついて石田三成が挙兵し全国を二分する戦いが繰り広げられ、上杉氏は西軍として伊達氏や最上氏などを向こうに回して戦ったが、西軍の敗北に終った。
その後景勝は家老の兼続公に家康の宿老の本多正信を介して謝罪させ、結果米沢30万石に減封されたのであった。いわば兼続の所領に押し込められた形となった訳である。
だが減封されたにもかかわらず家臣の多くを解雇せず引き連れていったので経済状態は困窮を極めた。加えて米沢城下は狭く多くの武士達が住める環境ではなかった。
このため上級武士を中心として城下に住まわせ、多くの下級武士は領内東方、南方の農村或いは国境付近に住まわせられた。地方に住むこれらの武士は原方衆と呼ばれ、平素は農業に従事し、有事のときに登城するといったいわば屯田兵のようなものであった。
兼続は減封後も上杉家の執政として経営に努め、殖産興業に心血を注いだ。
民政においては彼が農民のために著わしたという「四季農戒書」が有名である。これには四季それぞれ農民がどう生きればよいか、またどうすれば仕事が楽しく出来るかといった技術指導がこと細かに書いてある。この書はかの上杉鷹山も密かに読んでいたという。
ことに鉄砲の製造に力を注いだ。
これは関ヶ原の合戦で敗戦し降伏したとはいえ、周りは伊達、最上など東軍に味方した藩に囲まれており、いつ襲われるかわからないという緊迫した空気に包まれていたからである。
技術者を他国から求めこれには高禄にて召し抱えた。そしてこれは幕府に知られないよう山中にて極秘のうちに製造された。
こうして製造された鉄砲は大坂の陣の際に大いに役に立ったという。
彼は墓石にしても墓碑銘はなく賽の目のように孔の空いた形の物を勧めた。これは有事の際に墓石を防塁として用い、この孔から鉄砲を打てるようにしたという。利用できるものはとことん利用しようとしたのである。
とはいえ、米沢城はというとこれは30万石の居城にしては貧弱なものであり、堀はあるものの天守閣も石垣もない簡素なつくりである。これは幕府の猜疑心をそらすために敢えてそうしたのである。
思えばかの武田信玄も 「人は石垣、人は堀、人は城」
といって国内には特に城を築かなかったが景勝、兼続の心境も恐らくそうであったのであろう。
やがて大坂の陣が終った数年後の元和5(1619)年兼続は61歳で世を去り、ついで景勝も元和9(1623)年に世を去った。
その後定勝を経て上杉4代の綱勝のときお家断絶の危機に見舞われた。寛文4(1664)年江戸屋敷にて綱勝が跡継ぎもないまま27歳で死去してしまったのである。
死期に臨んでの急な養子を取り決める末期養子というのは幕府の法度であったから本来は取り潰しの対象であった。だが彼の岳父であり当時の幕閣でもあった保科正之の奔走により、綱勝の妹の子すなわち甥であり吉良上野介義央の長男である三郎綱憲を跡継ぎに迎え何とか改易は免れたものの、所領は半分の15万石に減封されたのである。
こうした経緯もあり藩主綱憲の実家吉良家との付き合いから出費も嵩み、さらに藩主自身の贅沢、越後・会津時代そのままの120万石の格式を保つための出費が重なり、借財もまた嵩む一方であり経済状態は最悪であった。
綱憲の治世で注目されるのは元禄10(1697)年に学問所及び聖堂を建て学問の興隆を促進したことである。これは後に米沢藩校「興譲館」となる。
その後吉憲,宗憲、宗房を経て重定が継いだ時には財政難はさらに深刻化していた。加えて天災により領民は塗炭の苦しみに陥り、このため打ちこわしも起こっている。こうした財政難に万策尽きた重定は幕府に領土の返上を申し出たが、その岳父家治に諌められて思いとどまっている。こうした中で重定は治憲に家督を譲って隠居した。
すなわち鷹山の登場である。
彼は日向高鍋藩主秋月種美の次男であり母方の祖母の実家が上杉家である。
鷹山は深刻な財政難を打開すべく、まず自ら率先して倹約に努め、武士、庶民一体になって荒れ地の開墾、殖産興業に努め財政の立て直しをはかった。
また細井平洲を招いて学問の振興を促し、先に5代藩主綱憲によって創建された塾舎を「興譲館」と名づけ、拡充した。
この間保守派家老が彼の改革に反対するいわゆる七家騒動が起こったものの、その一連の改革運動は功を奏し、財政は好転し彼の没後には蓄財さえ為されていたという。また天明の飢饉の際にも藩内から餓死者を一人も出さなかったことからも名君として謳われている。
鷹山は養父の実子である治広に家督を譲ったあとも後見として藩政をとり続け、晩年にはその養子斉定を養育した。
斉定も孝子や高齢の者を表彰し、民心の安定や勧農に努めた。
次の斉憲は文久3(1863)年将軍家茂に随行して上洛し、以後たびたび幕府の要職を任された。
慶応3(1867)年将軍慶喜の大政奉還のあと、戊辰戦争が起きた際新政府軍に対し、仙台藩とともに会津藩の謝罪嘆願をしたものの容れられず、やむなく奥羽列藩同盟のもとに官軍と戦った。
しかし同年降伏し4万石を削減され、嫡男茂憲の時に廃藩置県を迎えた。
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