■上越謙信公祭2003
其の壱(出立~前夜祭)





この年も夏がやって来た。
そう、謙信公祭という名の夏が…

今年も早速申し込みをし、列車の指定席や宿の予約も済ませ、時を待つ。

だが…
7月の初めに募集要項の発表があると殆ど間をおかずに申し込みをしたにも関わらず、待てど暮らせど音沙汰は無く、書類が送られて来たのは実に合戦が始まる1週間前のことであった。

そして、合戦前前日の8月14日。


それがしは各駅・快速列車一日乗り放題5日分で御馴染みの「青春18きっぷ」を使って夜行で行くため、国立驛を23時過ぎに出立。
この時は雨が降っていた。
さても合戦の安否が思いやられる。




      立川で待つこと数十分、臨時夜行快速「ムーンライト信州」が定刻に入線してきた。
車両は183系特急用車両である。

無理も無い。
この列車はつい最近まで特急車両を使って運行していた急行「アルプス」だったのである。



70年代の終わり頃から急行列車は特急に格上げ、もしくは快速に格下げ、或いは列車そのものを廃止という動きがあり、かつて日本全国で急行を見ない線区は殆どないほどであった急行列車も暫時姿を消して行った。

それは東北・上越新幹線の開業、国鉄の分割民営化でその廃止の勢いは更に増し、2001年初めには16種類51本あった急行列車も2004年7月現在で8種類22本と気息奄々の状態である(「アルプス」の廃止は2002年12月)。

こうなると急行列車の種別そのものの消滅も時間の問題という気がしないでもない。
その行く末を気遣わずには居られない。



さて、列車は立川驛を定時の0時29分に発車。
座席は簡易リクライニングシートで乗り心地はまあまあである。
車内であらかじめ買い置きしていたつまみを食べながら缶麦酒を呑むとあっという間に寝てしまった…

どのくらい寝た頃であろうか。
途中目を覚ますと列車は塩尻を発車したところであった。
乗り換えは次の松本なので降りる準備をしなければならない。

そして松本に4時31分に到着。その同じホームの向かいの線には急行「ちくま」が停車していた。
       松本驛で仲良く顔を合わせた臨時快速「ムーンライト信州」と急行「ちくま」。

かつては急行「アルプス」と「ちくま」がこの驛のホームで顔を合わる光景が見られ、あたかも残り少なくなった急行同士で今後の活躍を誓い合うかのようであった。

だが、急行「ちくま」もこの2ヵ月後の2003年10月を以って廃止されてしまったのである…


使用されているのは383系特急用車両であり、これは昼間同区間を走る特急「しなの」と共通の運用である。

数年前までは日本で最初の振り子式特急電車381系(※)が活躍し、その俊足ぶりで知られていたが、現在は定期運用を隠退し、後続の383系に道を譲っている。

※振り子式車両:
通常列車はカーブに差し掛かると減速しなければならないが、振り子式車両はカーブに差し掛かると自然に車体を傾けることにより減速することなくかなりの急カーブでも走ることが出来る。
381系は自然振り子式車両であったが、その後の開発でコンピューターによる強制振り子式により全国の特急列車はさらなる速度向上を果たしたのである。

JR四国の2000系特急用気動車、8000系特急用電車、JR北海道の281系特急用気動車、そしてこの383系特急用電車等がそれである。

383系急行「ちくま」



「ちくま」は4時47分に松本を発車。
長野まで1時間足らずの旅であるが、こちらはグリーン車には及ばないものの最新式の本格的なリクライニングシートであり、乗り心地は実に快適である。
発車してまもなく車掌が車内検札に来たので指定席急行券を見せたあと、松本・長野間の乗車券を購入する。

この列車は急行なので青春18切符は使えないのであり、乗車の際には急行券と指定席券、乗車券がそれぞれ必要なのである(この列車には乗ることがあらかじめ判っていたのでムーンライト信州の指定席券とともに急行券を購入していたのである)。

この列車でもあまりの快適さに熟睡してしまった。

そして5時45分に長野に到着。

ここで早朝に開業していた売店で驛そばをすすり、6時31分発直江津行きの普通列車に乗り、8時5分に直江津に到着する。


さて、着いたのはよいが、いつもながら(爆)大荷物を持っているため、さほど自由に動きまわることは出来ない。
それでもしばし直江津の町を散策したあと、春日山を経て高田へ。
      高田驛の駅舎は見事に改築されていた。
来るべき新幹線の開業に向けてのためであろうか。


高田城の堀には蓮が一面に植わっている。今が見ごろとみえ至るところで咲き誇っている。


蓮の花の清楚な様。
「如蓮華在水」との仏教用語(※)を思い起こさせるようだ。

※よくお寺の仏像の台座は蓮華の形をしたものが用いられるが、これは蓮華が仏の悟りを象徴しているからである。
尚、上記の言葉は「煩悩即菩提」、すなわち泥水のような煩悩を栄養にしてこそ悟りは得られるのだということである。


真新しい高田城三重櫓。
高田城には天守閣がなく、この三重櫓がその代用をしていたと言われる。
この高田城は慶長14(1614)年3月に越後75万石の領主で家康の6男であった松平忠輝により着工、同年7月に一応の完成をみた。
しかし大坂の陣後の忠輝の改易などにより、完全なる完成は
松平光長の代になってからだという。

忠輝の後は酒井・松平・幕領・稲葉・戸田・松平と変遷は激しく、榊原氏に至ってようやく安定し、明治維新・廃藩置県を迎えた。
その後廃城令により城の建造物の大部分は破却されてしまった。

写真の三重櫓は平成に入ってから本格的な木造で再建された珍しいものである。


ちなみに三重櫓の内部はこのようになっている。


そうするうちに時間も押してきたので直江津の宿に向かうことにする。


この時列車は本数が少ないので、路線バスで向かう。
宿のロビーには惟新殿、米屋殿、あゆみ殿、うーろん殿、じーや殿、肥前守左馬之助殿が集まっていた。
ここで再開の挨拶をし、チェックインを済ませ、部屋に荷物を置いて再びロビーへ。

ここからリハーサル会場の春日山城史跡広場までうーろん殿のお車に乗せて頂き、移動する。
以後合戦翌日までうーろん殿・じーや殿にはお車に同乗させて頂くことになったのである。

誠に忝ないです。この場をお借りし御礼申し上げます。



        さて、リハーサルには予想に反して大勢集まっていた。
昨年はそれがしはここにはいなかったのであるが、この場の雰囲気を見る限りでは当日の加熱ぶりが予想できるようだ。


はて、何故にこの人物が上杉方、しかも姫武者隊にいるのであろう乎?

そう、御存知、米屋繁霞殿である。

自他共に熱狂的な武田ファンを任ずる彼女が好き好んでこの場所にいるとは考えられない。

何事があったのかは分からないが、周囲の心配をよそに周りの姫武者隊の方々と歓談し、打ち解けている様子はさすがというしかない。


一方では惟新殿がインタビューを受けていた。

テレビ局スタッフ:
「あの…、お名前をお伺いします…(瀧汗)」

惟新殿:
「ふっふっふ…俺の名を言ってみろおおおおおーッ!!」


というやりとりでは無論ないでしょうな…(北○之拳か?!…劇爆)。時代祭りの歴戦の兵ということでだと思います。


会場では当日の簡単な殺陣のやり方、動きについての打ち合わせがあった。

写真は武締式で壇上に上がるやーたろー殿である。

さすがはサムライダー、威風堂々としている。


殺陣の演出をする丸竹産業さんの所属役者。

その見事な立ち回りはさすがというしかない。


リハーサルが終わり、解散。
我々は宿に戻り、その2階にある居酒屋で前夜祭をやる。
ここで食べ、飲みながら心行くまで歓談し、大いに盛り上がる。
上杉・武田方に参加する美女軍団…
お姉さん、和服姿は決まっておりますな。
     


若武者姿が板についているあゆみ殿。
当時、高校生にも関わらず、この祭りのために秋田からわざわざ駆けつけて来られたのは実に素晴らしい。


この後、丸竹産業さんの社長殿と平林殿が参加し、さらに盛り上がる。
ここに参加している自前甲冑所持者は全員がこちらのお世話になっている。


楽しかったひと時はあっという間に過ぎ、宿が別な弾正殿と山内兵馬殿はここで退出する。

やーたろー殿はここ直江津から長岡の御自宅まで帰られたそうだ。


他の方々と別れたところで、それがしは部屋でシャワーを浴び、この日一日の汗を流したところで、就寝した。



其の弐へ続く