|
数ある上杉関連の祭りの中で最も古い歴史があり(合戦祭りの原型は日露戦争直後に遡るらしい)、最も完成されていると云われている「米澤上杉まつり」…
2001年の初見物以来3年の時を経て、今年参加することになった。
この祭りに関する地元の意識はことのほか強く外部一般参加者は例年では10名前後と極めて少なく、しかも募集と同時にその枠が埋まってしまい、極めて参加が難しいとされている。
ということでそれがしは憧れを感じつつも参加を諦めていたのであるが、飯綱武蔵守法達殿が米澤市の観光協会と交渉の結果、自前甲冑所持者に関しては別枠として参加させて頂けることになり、今回の参加になったのである。
飯綱殿にはこの場をお借りして篤く御礼申し上げます。
尚、本年の自前甲冑軍団は以下の通り。
◆飯綱武蔵守法達殿
◆のりび殿
◆肥前守左馬之助殿
◆やーたろー殿
◆上杉播磨守定景
また、観戦にお越し頂き、写真撮影などでお世話になった方々は以下である。
◆雨順斎全長殿
◆臨雲白龍殿
◆男爵殿
|
5月1日土曜日の朝、屋敷を出立。
浅草に昼前に到着し、食事を済ませたあと、かねてより目をつけていた模造刀を購入。
この日は夕方にのりび殿に宇都宮餃子の美味しい店を案内してもらう予定であったが、それまで時間もあり、どこかに観光へ行こうと考え、かねてより興味のあった足利に行くことにした。
浅草から特急に揺られること1時間余り乗って足利市に到着。
しかしJRとは連絡しておらず、その上、足利市の中心地までは離れており、この日の春らしからぬ暑さと重い荷物を持っての行軍は殊の他辛い。
それでも休みながら歩くこと数十分、市の中心まで行き、足利学校、足利氏館跡(現鑁阿寺)などを見物する。
|
|
|
歩道橋上から見た足利学校。周囲を堀や土塁で囲っているところを見ると、何やらちょっとした城のようだ。 |
|
|
|
日本最古の大学、足利学校。
明治維新後に廃校となるまで幾多の俊英たちがこの門をくぐったことであろうか。 |
|
|
|
|
|
|
|
自習室の内部。
ここは立ち入り禁止であるが、時折上に上がってみたい衝動に駆られるのはそれがしだけであろうか。 |
|
|
|
ここから中庭を見ると何かほっとした気分になる。
學生たちもここで勉学の疲れを癒したのであろう。 |
|
|
|
|
|
|
|
真言宗鑁阿寺。
ここはもともとは足利氏の邸宅跡だったところであるが、寺としての歴史もまた長い。
そもそも足利氏の居館の一隅に持佛堂が建てられたのが寺の起こりであるという。 |
|
|
|
寺の周囲に巡らした堀にかつての中世領主の館跡だったことが見て取れる。 |
|
|
|
|
|
|
|
寺から遠くないところにある茶屋で休憩し、冷やし飴を飲む。
ふと見ると、偉大なる将軍様の銅像が建っている。
|
|
|
|
歴史を感じさせる味のある駅舎が現存している足利駅。
いつまでも存続して欲しいものである。 |
|
|
|
|
|
|
|
驛の横には碓氷峠で活躍した「EF60」型123号直流電気機関車が展示されている。
この機関車はかつて両毛線の貨物列車を牽引しており、新製直後は上野~高崎間の旅客列車も夏季のみ牽引したこともあったという。
|
|
|
市内の見物をしているうちにいい時間になってきたのでJR両毛線足利驛を出発。
そして栃木驛で東武線に乗り換えたのであるが、これが間違いであった。
運賃にして200円安いということでこちらに乗り換えたのであるが、本数も少なく、列車が遅いせいか思いのほか時間がかかってしまった。
やはりそのままJRに乗って行ったほうがよかったと改めて思った。
そして18時過ぎに、宇都宮でのりび殿と落ち合い、彼の案内で餃子を食べ歩く。
この日は休日という事もあってどの店も行列が出来ていた。この日は2軒、それぞれ十数分待った後食す。一軒目は色とりどりでバラエティ豊かな各種餃子を味わう。そして、2軒目は皮のもちもち感の今まで味わったことのない新鮮な味わいを楽しむ。そして満腹になったところで別れ、それがしはサウナ「南大門」で泊まる。
|
翌朝2日は南大門前に7:30にのりび殿に迎えに来てもらう。
ここから白河インターの近くのコンビニまで下の道を走る。
9:30に到着、ここで飯綱武蔵守法達殿を乗せ、一路米澤へ向かう。
高速を走ること1時間余りで福島飯坂インターに到着し、ここから下道を通り板谷峠を越える。
山また山が続く道、景勝公や鷹山公もこの道を幾度通ったことであったろう…
そして11時過ぎに米澤市街に入る。
この地に来たのは実に3年ぶりであり、感慨がこみ上げる。
まず宮坂考古館に行き、館内の甲冑、武具の数々を鑑賞する。
館内には上杉憲政、前田慶次郎、上杉景勝といった錚々たる面々の甲冑の数々のほか、槍や鉄砲が数多く展示されていて見ごたえがあった。
そのうちに大筒をどのくらい長く構えていられるかというのを競争しようということになり、昼食を賭けて飯綱武蔵守法達殿、のりび殿、それがしの3人で構えてみる。(館内には大筒や鉄砲の重さを実感出来る様に試しに持ってみることが出来る実物が置いてある。)
結果はそれがしが一番長く構えることが出来、ついで飯綱武蔵守法達殿、のりび殿の順となった。
館内の展示物を見終わったところで地元赤湯に在住の臨雲白龍殿から電話があり、林泉寺で落ち合うこととなった。
宮坂考古館から車で行くこと10数分で林泉寺に着く。
境内に入ると、それらしき御仁が居られ、向こうから声をかけて来てくれたので臨雲白龍殿と分かった。
彼とは網上ではかなり以前からの知り合いであるのだが、実際にお会いするのは今回が初めてなので、各自自己紹介をしたあと一緒に境内を散策する。
|
|
|
春日山林泉寺本堂。
長尾・上杉氏の菩提寺であり、景勝公がこの地米澤に転封になるに及びそれに従い越後春日山より移転する。
しかし、曹洞宗であるこの寺で菩提を弔うのは歴代当主の奥方を始めとする上杉家一族と家臣たちであり、当主は真言宗である法音寺で仏事を執り行うといった変則的なものとなっている。 |
|
|
|
境内で笹野彫りを実演・直売している人に出会う。
この御仁は確か3年前にもここに居たのを覚えている。
テントの中には沢山のオリジナルグッズが売られている。 |
|
|
|
|
|
|
|
直江兼続公夫妻の墓。
彼は先日「トリビアの泉」でも「愛」の字を前立てにした武将として紹介されていたが(確か80へえを越えていた)、こうした上杉好きならば誰でも知っていることでも、歴史に疎い一般の人たちから見れば驚くべきことに映るという一つの例として挙げられる。
ちなみにそれがしの知人の一人はこよなく敬愛する直江兼続公を面白おかしく取り上げられて、いたく激怒しておったそうな…(瀧汗)。
|
|
|
|
武田信清(永禄6・1563~寛永19・1642?)の墓。
彼は信玄公の7男で武田家滅亡の時に織田方による厳しい残党狩りを潜り抜け、姉で景勝公の正室となっている甲斐御前(菊姫)を頼って越後に匿われ、そのまま食客として上杉家に仕えた。
その後高家衆筆頭として3千3000石を与えられて優遇され、その子孫は米沢に現存するという。
|
|
|
|
|
|
|
|
甘粕景継(天文19・1550?~慶長16・1611)の墓。
備後守。
越後守護代一族・上田長尾氏の家臣で登坂加賀守清高の嫡男であったが、謙信公の命により甘粕家を継ぐ。
剛勇無双にして槍と長刀の名手であり、気骨稜稜たる侍大将であったという。
初めは越後五泉の城主であったが、庄内酒田の東禅寺城城代に転じ、慶長3(1598)年には白石城代となった。
同5(1600)年の会津若松の神指城普請においては奉行直江兼続公のもとで小奉行を務める。
慶長16(1611)年5月12日に62歳で没。
|
|
|
|
水原(杉原)常陸介親憲(天文15・1546?~元和2・1616)の墓。
越後北蒲原郡水原城城主であり、上杉家中屈指の勇将であったという。
景勝公に従い、会津ついで米沢に移る。
大坂夏の陣で武功があり将軍家より感状を賜るも、その宛て名の水原を杉原と書き間違いがあった(どちらも「すいばら」と読む)。
しかし将軍家に異を唱えるわけにもゆかず、これを因に姓を「杉原」と改めたという。
元和2(1616)年に71歳で没。
|
|
|
|
|
|
|
|
新津左近の墓。
それがし無知にしてこの人物の詳細を存じ上げていない。
しかしそれがしの知人に新津家の子孫と称する人物がいるので機会があれば聞いてみようと思う。 |
|
|
|
菊姫(甲斐御前)(永禄元・1558~慶長9・1604)の墓
信玄公の4女で、宿敵であった上杉と武田の同盟後に越後の景勝公の正室となる。
甲州夫人とも呼ばれ敬愛されたが景勝公との間には子のないままに慶長9(1604)年伏見の屋敷にて47歳で病没。
歌舞伎本朝二十四孝十種香の場における八重垣姫のモデルともいわれている。 |
|
|
|
|
|
|
|
お豊の方(寛保元・1741~文政4・1821)の墓。
上杉家10代治憲(鷹山)公の側室(正室が病弱かつ障害者であったため実質は正室)である。
上杉一族の勝延の娘で10歳下の治憲公に嫁ぎ、顕孝と娘一人をもうける。
治憲公の政策に理解を示し、率先して実践したことなどで賢夫人との誉れも高い。
文政4(1821)年81歳で没。 |
|
|
|
|
林泉寺の境内を見終わったあと、そのすぐ近くにあるという飯綱武蔵守法達殿のお知り合いの印刷屋さんを訪問。
この方は何と上杉砲術隊の方でこの日の夜も武締式に若い方の裏方として出られるのだそうだ。
店に入り、珈琲をご馳走になりながら、砲術隊での様々なエピソードをお聞きする。
そのうち、この方はそろそろ出る準備をしなければいけないということで我々も退出し、米澤拉麺の店へ。
それがし共は車で市内を回り、拉麺屋を探すも、やはりどこの店も行列が出来ていた。
前日の宇都宮餃子の店といい、これはただ単に休日の所為というだけではなく、グルメ情報誌などの雑誌で取り上げられているせいではないだろうか。
十数分ほど廻り「愛染」なる米澤拉麺の店にする。
ここもやはり行列が出来ていて、店の前で雑談などしながら待つ。
そしてようやく店の中に入ると、メニューの多いこと多いこと。
しかしそれがしは一番シンプルな「米澤拉麺」を注文し、出てきた拉麺を食べてみる。
(他の御仁も確か同じものだったような…)
麺は手もみ風の柔らかいちぢれ麺で、スープはさっぱりしたしょうゆ味だった。
昔ながらの味といった感じで飽きのこない味である。
スープは東京拉麺に近いようでもあるが、麺はやはり喜多方拉麺の流れを汲んでいるようにも思える。
特に叉焼拉麺の麺が見えなくなるほど叉焼を乗せるところは喜多方の影響を受けていると考えて間違いなかろう。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
其の弐へ |
|